wNARAMACHI Labyrinth
第37回(1998年05月号掲載)
東大寺
修二会 実忠忌と青衣の女人
 死にものぐるいの情熱で修二会の行法を編み出された実忠和尚は、天平勝宝四年二月一日より始めて、大同四年まで、約六十年の間、請来の生身の観世音のご宝前で、毎年二七ヶ日夜六時の行を修せられた。そして寺伝によると、修二会参籠中の五日の夜、内陣の須弥壇の下に消えられ、以来その姿を誰も見ることがなったという。大仏殿造営にも師の良弁僧正の目代として敏腕をふるい、十一面観音悔過の行に情熱を燃やされた実忠上人は、まさに仏の世界へと昇華されたのであろう。今も、修二会の五日は実忠和尚の御命日として、追善法要を勤修してから初夜行法が始められるそうである。

 修二会の練行さなか実忠忌
 三月五日と十二日の夜には、「東大寺上院修中過去帳」が読み上げられる。「過去帳」に名前のあがっているのは、良弁、実忠など大仏建立に関係した人々や、東大寺の歴代の別当、練行衆として修二会に参加した人々など、東大寺内部の人達と、外部から外護者として功績のあった、大仏鋳造の願主であった聖武天皇や、あつく仏に帰依し、悲田院や施薬院をつくって慈悲をほどこしたり、大仏造営にも聖武天皇をたすけられた光明皇后、再建の大施主であった源頼朝、再建の勧進をした俊乘坊重源など、東大寺に対して功労のあった方々である。そのなかには、光明皇后は別として、あまり女の人の名は加えられてないそうである。
 ところが、鎌倉時代、承元年間のある年、僧集慶が、例年通り「過去帳」を読み上げていると、薄暗い荒格子の内に、青い衣をつけた女官風の美しい女性が、まぼろしのように、すうっと現われて、いかにも恨みがましいそぶりで「など我が名を読み給わぬぞ」と言ったという。
 女人禁制の浄域のなかに、綺麗な女の人が姿を現わそうなど、夢にも思わなかった集慶は、驚いて女人を見つめた。
 僅かにゆらぐ灯明の光に鮮やかに浮かび上がる青衣をつけた女人の白い顔には、妖気さえあやしげにただよっている。集慶はすっかりあわててしまった。しかし、いったいそれが誰なのか、名前などわからない。とっさに集慶は大きな声で「青衣の女人」と読み上げた。すると、その女の人はいかにも満足そうに、にっこり笑うと、そのまま姿を消してしまったという。それ以来、「青衣の女人」は過去帳のなかに書き加えられて、現在も読みつづけられている。
 青年僧の、連日のきびしい練行の疲労からきた幻影ではなかったのか、とか、壇の浦で死んでいった平家の女官のなかで、なにか東大寺と縁のあった女人の霊であろうとか言われているようであるが、さだかなことはわからない。
 それは、走りの行法でもって行われる、厳しい十一面観音悔過の行法の内に、ぽっつりと灯のともったように、暖かく心をなごませてくれる傳説である。
 奈良町には、昔から「修二会の三月一日から十四日まで、毎晩お詣りさせて頂くと、良い事がある。」という言い伝えがある。信心深かった祖父母は、「毎年、今年こそと思うのだけれど、何か用事が出来て、たった二週間だというのに、なかなかお詣り出来ないものだな。」と、いつも言っていた。それでも、毎年、その期間中に十日余りはお詣りしていたようだ。私もまだ幼稚園も上がらぬ前からよく連れて貰ってお詣りした。
 奈良でバスといえば、やっと国鉄奈良駅から春日神社まで走り始めたのが昭和三年のことだというから、私達の住む市の南部はバスも通っていないから、往復四キロ位の道を歩いてのお詣りだ。しかも、その頃は今では考えられない位寒く、池には氷がはっていたし、道ばたには雪が残っていたり、凍てついた道は、すべりやすかった。街燈も少なく、懐中電燈か、月明り、星明りで歩くのだが、それでも鏡池の横の参道あたりまで行くと、お参りの人でいっぱいだった。昔の人達は、本当の信仰心であの暗く寒い道を歩かれたのだなと思う。此の間、写真家の井上博道さんと話していたら、「私がまだ奈良に住んでいない頃、奈良駅に着いたら、東大寺の観音院さんが堤燈を持って迎えに来て下さってましてね。広い道を歩いていた時はまだよかったんですが、鏡池の手前の杉並木へ来ると、堤燈の灯のゆれるのにつれて、杉の影も自分達の影もゆれて、なんだか大男か、もののけでも現われそうな雰囲気で怖かったですよ。」とおっしゃっていた。「あの杉並木は昼でもうす暗い感じなので、昭和の始め頃、祖父が友人達と話し合って、細い私設の電柱を立てて、電燈を一灯づつ点させて頂いていたのですよ。祖父は昭和八年に死にましたが、昭和三十年位までは「増尾傳三郎」という祖父の名前で集金にこられる電気代がありましたが、此の頃集金においでにならないのは、きっとあの辺り、お寺の方で整備なさる時、灯が除かれたのでしょうね。」と私がいうと、「そう言えば、小さな電柱に灯がついていましたな。」と言われたので、久しぶりに祖父の知己に会ったような気がした。「あの辺どうなってますか」と聞かなければならない程、此の頃は車で手向山八幡の方から入ってしまうのだ。
 修二会の時焚かれるおたいまつの燃えさしの杉の葉を拾って来て枕元に置いておくと、子供が夜泣きしなくなるとか、病人がなおるという伝承もある。燃えさしを拾うと言っても、押し合いへしあいの人の上に火の粉が雨のように降ってくる中で争って拾うのだから、私には到底駄目だとあきらめて、めったに拾って帰ったことがないのだけれど、昨年のお水取りの時は丁度主人が、腰部脊椎管狭窄症で、足腰の痛みに悩んでいたので、拾って帰りたいと思っていた。しかし皆が要領良く拾われるので、なかなか手に入らない。すると一人のお坊さんが、かなり大きな燃えさしの杉の皮を拾って私に下さった。喜んで頂いて帰った私は、仏壇に供えてから懐紙にはさんで主人の枕元に置いた。諸々の神仏のご加護を頂いたおかげか、難病と言われる主人の病気も昨年末には日常生活に支障がないまでに平癒し、おたいまつの杉の葉は、感謝をこめて、元興寺の節分柴燈護摩の火で天にかえって頂いた。

 水取りや闇に浮かべる二月堂

 上堂の僧照らし出す大松明