第36回(1998年04月号掲載)
東大寺
修二会 お水取り
 東大寺の修二会は試別火から始まって、本行の三月一日から十四日までの二七日間と、約一ヵ月にわたるきびしい修練が続く荒行であるが、なかでも十二日の夜から、十三日未明に若狭井からお香水をくむ「お水取り」の行法が有名で、修二会自体が「お水取り」として全国的に知れわたっている。
 お水取りには、次のような微笑ましい伝説がある。この行を始められた実忠和尚は、二七日間の行法の間、来臨影向をお願いするために、全国の一万三千七百にも余る神様達の名前を書きしるした「神名帳」をつくられた。
 いよいよ行法が始まって音聲朗々と神名帳を読み上げて勧請されると、神様達は遠近を問わずただちにぞくぞく集まって来て、皆この行をたすけ、守護することを引き受けて下さった。ところが、若狭の国(福井県)の遠敷明神だけは、いつまで待ってもおいでにならない。神名帳は毎日読み上げられるのだが、その翌日も翌日もおみえにならないので、「どうされたのだろうか」と神様達も心配しておられた。
 すると、修二会もあと二日で終るという三月十二日の夜、遠敷明神が息せき切って駈けてこられた。「今ごろになってやって来るなんて、いったいどうされていたんだ。」と神様達があきれたようにたずねられると、遠敷明神は恥かしそうに、「おくれてしまって、すまん、すまん。実は、皆も知っての通り、若狭の小浜はよく魚のとれる所なのだ。それで、この間から魚釣りに行っていると、あまりよく釣れて面白いので、明日こそ、明日こそと思いながら、とうとうこんなに遅くなってしまって申し訳ない。」とあやまられた。そして「遅れてきたおわびに、仏様にお供えする香水を奉ることにする。」と言って、遠敷明神は、お堂を出られると石段をおりてゆかれた。
 石段を下りたところに、大きな岩が横たわっていた。遠敷明神は、その前に坐って呪文をとなえてお祈りされた。すると、前にあった大岩がにわかにぐらぐらとゆれて、まっ二つに割れた。皆が呆気にとられて見ていると、その割れ目から、白と黒の二羽の鵜がとび立った。そのあとから、清らかな水が、こんこんと湧き出してきた。
 「はい、これが、地下を通って若狭から運んで参りました、お供えの水です。」
 「おう、これは綺麗な尊いお香水を有難うございます。早速、本尊様にお供えしましょう。」と、実忠和尚は喜んで、その水を汲んで、十一面観音様の御前に捧げられた。
 それから、その岩のまわりを切り石で囲み、若狭の国の遠敷明神が出して下さった井戸だというので、「若狭の井戸」と名付けたのが、今も二月堂の下にある「若狭の井戸」だという。それ以来、毎年三月十二日の後夜の悔過が行われている途中で咒師(註)が堂外へ出て、堂童子と練行衆の平衆五名を従えて若狭井にむかう。ご本尊様が秘佛であると同じく、このお水取りの作法も秘事で、井戸屋形に入れるのは咒師と堂童子だけで、平衆は扉の付近に立って、内が見えないように衣の袖でかくす。咒師は井戸のかたわらに立って、加持祈祷を行い、堂童子が井戸からお香水をくみ上げるのだそうである。こうしてくみ上げられたお香水は、内陣の須弥壇の下の三個の水がめに納められて、一年間保存される。本尊様にお供えしたこのお香水は、病人に飲ませると、いかなる病気にもききめがあるという民間信仰があるので、信者達にわけ与えられたり、行法中の、五日、六日、七日の走りの行のあとで、参詣の人達の掌に二三滴づつわけて頂いて頂戴したりする。普通の水であったら、一年も置いておくと腐ってしまうだろうが、お香水は霊水なので、絶対腐らないのだそうだ。勿論、走りの行のあとで頂くお香水は、前年の十三日未明にくまれた水である。
 それに、不思議なことに、この井戸には、ふだんは一滴の水もなく、三月十二日の真夜中、お水取りの行われる時には、こんこんと水が湧き出てくると言われている。
 又、このお水取りに先だち、若狭の小浜では、三月二日、お水送りの法事が行われる。神宮寺で盛大な祈祷会が執行された後、境内に溢れんばかりに集まっていた参詣者達が、手に手に松明を持って、二キロ程離れた遠敷川の鵜の瀬まで行列を作って歩く。この鵜の瀬の洞穴が、二月堂の若狭井に通じていると信じられている。奈良市と小浜市が姉妹提携をしているのは、このご縁によるものである。私も何度かお参りさせて頂いたことがあるが、若狭でもお水送りの日は必ず寒くなると伝えられる程、身の引き締るような寒さのなか、真っ暗な夜道を、おびただしい数の松明がそれぞれに揺れながら行進していくさまは、幻想的で美しく、厳粛な思いが胸にせまる。鵜の瀬でも壮大な加持祈祷が行われて、お香水は奈良へと旅立っていく。
 お水取り お水送りや/奈良小浜

 お香水に象徴されるように、小浜から奈良へは大陸文化伝承の道であり、仏教東斬の道の一つでもある。東大寺の清水公照長老が、「唐の時代は十一面観世音への信仰が非常に盛んになった時期で、その文物の伝達路にあたる、小浜から奈良への道には、十一面観音をおまつりする寺が多い。」とおっしゃっていたのも、もっともと思われる。
 若狭と奈良の関係はそれだけにとどまらず、鮑、烏賊、いりこ、胎貝、海苔等の海産物、特に塩等を調として納める、大和中央政府の大切な食料供給地域であった。
 塩街道 残雪黒き斑をなせり

 奈良には「大仏商法」という言葉がある。大仏様にお参りに来て下さる方達のおかげで、奈良の商人はあまり努力をしなくても経営がなりたっていくので不勉強だという意味だ。なかには、「東大寺さんは、大仏さんがいてくれはるので、お坊さんも結構ですなあ」と、あたかも大仏商法のようなニュアンスで言う方もある。しかし、それはとんでもない間違いだと思う。修二会だけでも、これだけの荒行をしておられる。他にも月例法要、年次法要が目白押しの上に、各部所でのお仕事もある。東大寺にかぎらず、お坊様というのは、人一倍勉強もし、厳しい修業を積んでおられるからこそ諸人から尊敬を受けておられるのであろう。我々も、折角奈良へおいで下さった観光のお客様を親切におもてなしし、地域の方々にも愛されるような、誠実な商いをしてゆきたいものだと思う。
註 咒師とは、修二会で最も重要な役割をもつ四職の一人。四職とは、練行衆に戒を授ける和上、修二会の最大目的である祈願をする大導師、密教的な修法をする咒師、内陣の鍵を管理して外部との渉外役をする堂司の四人である。