第35回(1998年03月号掲載)
東大寺 
二月堂 十一面観音悔過の行
 立春が過ぎて、寒さが少し和らいでも、一般にお水取りと呼ばれる東大寺二月堂の修二会が始まると、奈良の町は、冴え返って、不思議に寒さが戻ってくる。人々は、重ね着の肩をすくめながら、「堂の荒れで寒なりましたな。」「お水取りが済まんと温くなりまへんな。練行衆もご苦労はんなことや。」といった挨拶をとりかわす。堂の荒れと呼ばれる程、その行法は厳粛森厳であると同時に、火と水と僧が乱舞して、あらゆる人達の罪、又国家が犯した罪を十一面観世音の宝前で懺悔して、亡き人々の菩提を弔い、国家安泰、世界平和を祈る荒行である。
 今年(平成十年)で1247回、とぎれることなく勤修されるこの行事には、数々の伝説が残されている。
 大仏開眼を翌年の春にひかえた、天平勝宝三年(751年)十月、東大寺別当良弁の高弟、実忠は、山城の笠置山にある龍が住むという底知れぬ深さをもつ洞窟に籠って修業をしておられた。この龍穴の奥には兜卒天があるとの言伝えがあった。兜卒天とは、将来仏となる菩薩達が住んでおられる所で、常時、弥勤菩薩が説法をしておられるという世界のことである。
 冥想にふけっていた実忠和尚は、ふと霊感にうたれて、夢うつつともなく立ち上がり、洞窟の奥へ奥へと進んでいった。およそ四キロばかり行くと、目の前がぱっと広くなり、輝くような明るさに満たされていた。
「あっ、兜卒天だ。」兜卒天の内院には、荘厳な四十九棟の摩尼宝殿が建ち並んでいる。実忠和尚は胸をとどろかせながら、四十九院を順拝して最後に常念観音院に到達された。そこではちょうど沢山な天人が集って、十一面観音の悔過法要を勤修されているところであった。その行法を脳裏に焼きつけるように拝観していた和尚は、感動のあまり、そばにおられた菩薩に問いかけてみた。
「さすがに菩薩衆だけあって、実に有難い行法です。これをなんとかして、人間世界に伝えることは出来ないものでしょうか。」
すると菩薩は、「それは無理でしょう。兜卒天の一日は、人間界の四百年に相当します。おまけに、この行法のきまりは、きわめて複雑でむつかしく、一日に千遍もの行道をきちんと繰返さなければなりません。とても人間には出来ることではないでしょう。それに、生身の観音様を本尊としなければならないのです。」と、やさしく断られた。
 しかし、まのあたりに有難い行法を拝した実忠和尚は、あきらめることは出来なかった。
「一心不乱にやれば出来ないことはないだろう。勤行の作法を急ぎ、歩いてやれなければ、走って時間を縮めれば千遍の行道も満たせるだろう。誠意をもって勧請すれば、生身の観音様も人間界に示現して下さるであろう。」と思ったとたん、実忠は夢からさめたように、龍穴の入口にいたそうだ。しかし、たしかに見た「十一面観音悔過の行法」は鮮やかに心に焼きついていた。
 実忠和尚は摂津の難波津で、補陀洛山にむかって香華を供えて、心をこめて勧請し、閼伽折敷(四角い小さな器)を補陀洛山のある南の方にむかって海に流された。日夜祈願をこめられて百日目に、ついに生身の十一面観音様が、百日前に流した折敷にのって、補陀洛山から難波津へ流れつかれた。和尚は、「これこそ笠置の龍穴で聞いた生身の観音様だ」と歓喜し、東大寺、羂索院(今の二月堂)に安置された。以来、この観世音菩薩は秘佛で、誰もそのお姿を肉眼で拝した者はいないが、霊験あらたかで、無限に利生したまうという。
 「十一面悔過の行法」すなわち「修二会」は、天平勝宝四年二月一日より、第一回が実施されている。大仏殿の開眼法要が行われたのが、同じ年の四月九日であるから、別当良弁上人の目代として活躍していた実忠和尚は、多忙をきわめた日々であったであろうが、まるでもののけにつかれたように、行法について熟考を重ね、遂に現行の悔過行法を完成、実施したわけである。
 天下未曾有の大仏開眼にさきだち、天上界の行法を感得することが出来たのは仏の示唆と感じ、我執我欲を破砕し、自他一切の罪咎を懺悔して、汚れのない白絹のような心で大仏開眼を迎えたいという情熱が、この超人的な力を発揮したのではないだろうか。
 それ以来、恵美押勝の乱、源平の戦、戦国時代、近くは第二次大戦と大変な混乱期にも一度も休むことなく行じられてきた偉大な伝統である。
 修二会は厳格な行で、拝観させて頂くにしても、女は局という格子の外までしか入れて頂けないし、約一ケ月にわたって複雑な行事や作法があるのでよくわからないが、十二月十六日に開山堂の寺役席で参籠の僧と役割が管長様より発表されるそうだ。
 二月二十日(新入の方は十五日)から試別火に入られる。別火とは、日常生活から離れる意味で、火を別にするということで、この日から、食事も風呂も別火坊で行い精進潔斎される。この間に、紙衣しぼりをしたり、供花ののりこぼしを作り、お札を入れる包み紙折り、声明の練習等される。二十六日から総別火に入ると土を踏むことが出来ないので下へは下りられない。紙衣で、畳の上に直接坐ってもいけないので、蓙を持って歩いて、蓙を敷いてからその上に坐るという程、日常の起居にも沢山の作法や制約があるようだ。
 三月一日午前二時、凍るような寒さと、まっ暗ななかで、和上が戒文を読む「授戒作法」を皮切りに「修二会」の本行に入る。以後、寸刻の心の遅緩も許されない行事がぎっしり詰っている。
 三月五日、六日、七日にはいわゆる「走りの行法」が加わる。この行法は「南無頂上」「南無最上」と唱えながら札拝行道することから始まり、その速度が次第に早められて、差懸(堂内ではくはきもの)を脱ぎ捨てて、足袋はだしとなり、衣の袖をたくりあげ、いっせいに前かがみになって走り出す。あらんかぎりに猛スピードで呪文のようなつぶやきを唱えながら走り、五体板にひざを打ちつける。狂わんばかりの乱走の足音や鐘の音がとどろきわたり、鬼気がただようような迫力がある。これは、兜卒天の一日は人間界の四百年にあたると聞かされた実忠和尚が、その遅れを取り戻そうとして編み出した必死の努力である。
 十二、十三、十四日は達陀の妙法やお水取りが行じられ、籠大松明が上って悔過行法のクライマックスである。大鈴、法螺貝、錫杖等の音が入り乱れるなかを、十一人の練行衆が燃えさかる達陀松明をふりかざして走り廻る。達陀帽をかぶった僧達が、燃え落ちた木片で火の海と化したなかを、跳び跳ねて達陀松明をひきずりながら廻る姿は、さながら天人の踊りのようだという。こうして、胆を冷やす最後の荒行が終わって二十七日にわたる「十一面観音悔過会」が幕を閉じると、翌十五日は「達陀帽」。
 達陀の時練行衆がかぶっておられた達陀帽を子供の頭にかぶせると、その子は一年中無病息災で暮らせる上、智恵を授かるというので、奈良町の人達は親子連れでお参りする。不思議とこの達陀帽の日はぽかぽかと陽気の日が多く、修二会のお松明の火が春を呼ぶと信じられている。