第34回(1998年02月号掲載)

白毫寺

 春寒の頃の奈良町では、「お彼岸もすんだというのに、いつまでも寒いですね。」「“暑さ寒さも彼岸まで、まだあるわいな一切経”って言いますから、お互いに風邪をひかないように気をつけましょうね。」といった挨拶がよく交わされる。この場合の一切経は、経そのものを指すのではなく、毎年四月八日に白毫寺で勤修される一切経法要が済めば、本格的な春が大和路に訪れるという意味だ。
 高円山の西麓にある白毫寺は、その昔、天智天皇の第七皇子「志貴皇子」のお住居春日宮のあとを、皇子の没後寺にしたと伝えられる。
 大海皇子(後の天武天皇)と志貴皇子のお兄さんである大友皇子の間に起った壬申の乱が終わり、天武天皇の時代になると、天智天皇の皇子達は、むつかしい立場になる訳だが、志貴皇子は政治面に出しゃばって行く野望もなく、ひっそりと静謐な高円の野辺を好み、万葉集に繊細な秀歌を残された。
石走る 垂水の上の さわらびの/萌え出づる春に/なりにけるかも(巻8 ― 1418)
 といった美しい自然を詠んだ歌もあるし、
むささびは 木末求むと/あしひきの/山の猟夫に あいにけるかも(巻3 ― 267)
 木末を求めて飛び出したばかりに山の狩人に捕まってしまったむささびよ、かわいそうに、という歌には、皇子のお心をしのばすものがある。
 それから五百年位たって荒れ果てていた寺を、鎌倉時代に西大寺中興の祖、興正菩薩叡尊が白毫寺も再興整備された。叡尊のお弟子さんの道昭大徳が、弘長元年(1262)宋にわたって、艱難辛苦の上、大宋一切経の摺本を持って帰られたので、それ以来この寺を一切経寺と呼び、四月八日には、先に述べたとおり、一切経法要が営まれている。
 その頃、境内では樹齢四百年の五色椿(奈良三銘椿の一つで県天然記念物)はじめ沢山の椿が見事に咲き揃う。秋には参道の石段横から境内一帯に萩が咲いて、
高円の 野辺の秋萩 いたづらに/咲きか散るらむ 見る人無しに(巻2 ― 231)
 笠朝臣金村の志貴皇子への挽歌の風情をしのばせる。
 白毫寺のご本尊は阿弥陀如来様であるが、白毫寺というと、閻魔詣(一月十五日と七月十六日)を連想する程、閻魔様で有名である。重要文化財の木彫閻魔王坐像は鎌倉時代の作で、中国風の道服をまとい、真っ赤な顔は、目と口を大きくカッとあけた恐ろしい形相でにらみつけておられる。左右には待者の司命と司録の像がひかえている。司命は半跏像で、身体の前に巻物をひろげ、亡者の生前の悪業を読み上げている。司録も半跏像で、虎の毛皮を敷き、右手には筆を持ち、左手に持った一メートル程の木札に閻魔庁の裁判の記録を書き記している。三体とも見事な出来である。
 見るもおそろしげな閻魔様であるが、閻魔様の本地佛はお地蔵様で、死後三十五日目に閻魔王として、六道のどの道に進むかの判定を下し、けじめをつけた後で、地蔵菩薩のお姿で現れて救済の側にまわって下さるのだそうだ。
 境内には石造の地蔵十王像がまつられている。十王とは死後の世界で亡者を裁く十人の王のことで、死者は初七日には秦広王、二七日には初江王、三七日には宋帝王、四七日には五官王、五七日には閻魔王、六七日には変成王、七七日には太山王、百ヶ日には平等王、一周忌には都市王、三回忌には五道転輪王によって、それぞれ裁きを受けるとされている。そして、初七日の秦広王は不動明王、四十九日を担当されている太山王は薬師如来、三回忌の五道転輪王は阿弥陀如来というように、それぞれ本地佛がある。けじめをつけられた後は救済して下さるという信仰で、このお寺が再興された鎌倉時代は、特に十王信仰が盛んであったという。
 昭和五十年一月十五日の閻魔詣に主人と一緒にお参りしたら、福引をしておられた。それを引いたところ、二つしか用意しておられなかったという特賞が、主人と私に当たった。その年、長女の家には佐智子という女の子、長男には朗という男の子を授かったのは、忘れ難い思い出として感謝している。