第33回(1998年01月号掲載)

大安寺 その3 

「三宝絵詞」にあらわされた大安寺
 三宝絵詞は、冷泉天皇の皇女尊子内親王のために、仏教入門書として撰進された説話集。作者は源為憲。

▼三宝絵詞 下巻十七
  「大安寺大般若会」
 大安寺の発願は聖徳太子にはじまり、熊凝精舎となり、舒明天皇の時代、その精舎を百済川のほとりに移し百済寺となし、天武天皇はさらに高市郡に移して、大官大寺となされた。元明朝にはもう一度奈良の地へ、堂と佛を移した。ところが、聖武天皇の時代、道慈という名僧がいて、さきに唐に渡り、中国西明の伽藍配置を見てとって日本に帰り、天平元年、天皇の勅命で、この寺を改めて造った。天平十七年、名をあらためて大安寺とし、「この寺は、かつて雷神に焼かれたが、その雷神の心をよろこばし、寺を守るためには仏法の力によるしかない。」といって、大般若経を書きおき、経文をよみ、歌舞をも行う法会をはじめられた。これが大安寺大般若会の起源である。
(この法会については、「延喜式」にも、「凡そ大安寺の大般若経会。毎年四月六、七両日、僧一百五十口を請い、大般若経を転読する云々」とあり、その規模の大きかったことがわかる。これに大唐楽、伎楽が伴えば、春日野や高円山にもひびきわたる程の大法会であったろう。当時の大安寺の権勢がしのばれる話だ。)

▼「三宝絵詞」の中巻十八
 昔大安寺に栄好という僧がいた。貧しかったがよく修業し、僧坊より外へ出ることもなかった。栄好には一人の童子が付き人として従っていた。当時、七大寺の僧は、飯四升を支給されていたが、栄好はそのうち一升を、寺の外に住まわせた母に、一升は童子に、そして一升は物ごいに与えていた。
 その頃、栄好の僧坊のそばに勤操という僧が住み、修業に専念していた。ある朝泣声がするので、勤操が童子にたずねると、「師の僧の栄好様が亡くなられました。これから先、師匠のお母様の食事はどうしたらよいものかと、途方にくれております。」と答えた。勤操は、「母親とお前の食事は、私のものをまわすから、母親に栄好の死を知らせるな。」と言った。
 このようにして、勤操は他人の母を養い続けたが、ある時、客人があり、薬の酒をすすめられたので酔ってしまい、例の母親への食事の配分が遅れた。
 一方母は胸にあたるものがあり、遅れて食事を持ってきた童子に栄好の安否を問い詰めた。言を左右していた童子もついに隠しきれなくなり、実は栄好は一年程前にこの世を去ったと、事の次第を告げた。すると嘆き悲しんだ老母はそのままこときれてしまった。
 この報告を童子からうけた勤操は、「我もし、まことの子ならましかば、かかる事はあらましやは、我もし仏の制し給へる酒を飲まざらましかば、かた時もおこたらましやは。」と言って泣き、同法の人、七人を連れて母を石淵寺のある山(高円山)に葬った。そして母の供養のため、八人して法華経八巻を読むことを誓った。この年(七九六年)より、同法八講として、毎年続けられた。
(この八講は、この本の編者、源為憲の時代にも、絶えることなく行われていたという。誠に胸の熱くなるような話である。勤操の真摯な慈悲、己に対する厳しさ、古代の寺院には、このように身をもって仏法を実践する多くの僧が居住していたようである。)
 この勤操大徳が、弘法大師の剃髪の師と伝えられる。大師は延暦七年(七八八)十五歳の時、阿刀宿弥大足に伴われて京に入り、儒教を学ぶ傍ら、勤操僧都について三論を学ばれた。これが、大師が仏門に入られる端緒である。二十歳の時、和泉の槙尾山に於いて勤操を師として、剃髪得度して、名を教海と改め、ついで如空と号し、二十一歳の時、更に空海と改められた。その後、遣唐僧として長安の都で学び、密教の奥儀を極めた。彼の地の師、青龍寺の恵果阿闍梨から譲られた五百余巻の経典の中に、龍王に降雨を祈る請雨経も含まれていた。大師は帰国後、旱魃の折には、しばしば請雨祈願を修して奇端があったことは、各地で今も語り草になっている。その師、勤操もまた、八大龍王に降雨を祈って農民から感謝されたと伝えられる。
 延暦年間のある時、大和平野の人達は旱魃に苦しみ、大安寺の勤操和尚に雨乞いの修法を願った。和尚は、義淵僧正開基といわれる、布留川渓谷の龍福寺に七日間こもって降雨を祈願したが、満願になっても慈雨に恵まれない。農民達はがっかりして引き上げて行ったが、堂の隅に童子が一人涙を流して和尚を伏しおがんで、去ろうとはしない。和尚が、「どうしたのだね。」とたずねると、「実は私は、この渓流に棲む小龍ですが、有難いお経を七日間も聴聞させて頂いた功徳で、安楽浄土に生まれ変わることが出来ます。有難うございました。」と礼拝合掌した。和尚は、「龍ならば、雨を呼ぶことが出来よう。百姓達のために、この旱魃を救ってやってくれないか。」と頼むと、「それには大龍王のお許しが要るのですが、只今合憎くご不在で」と答える。「それでは拙僧の祈靖も効かぬ筈、何か良い方便はないものだろうか。」と旱天を仰いで嘆くと、「では、私一存で取りはからいましょう。でも、龍王のお怒りに触れるでしょうから、御生の菩提をお願いします。」と言って童子は決然と立ったと思うと、雷神と化し、風を呼んで、昇天すると、忽ち豪雨となり、大和の農民は歓喜した。しかし、小龍は、頭、胴、尾と三ツ裂きにされて地上に落ちてきた。勤操は悲嘆にくれ、遺体が落ちてきた三ヶ所に仏寺を建立して、ねんごろに追福供養をした。今もこの三ヶ寺の清泉はどんな旱魃でも水が涸れないという。
 弘法大師には次にような民話もある。
「昔、弘法大師が、奈良の大安寺で修業をしておられた時、修業のかたわら、文字をつくっておられたんや。殆どの文字が出来たけれど、「わらう」という漢字だけは、どうしても工夫がつかなかった。大安寺の大師堂から上街道を見ておられると、むこうから旅のお坊さんが歩いて来られたんや。すると、そのあたりであそんでいた白犬が、坊さんの杖におどろいたのか、急に「ワン、ワン」とほえだした。驚いた旅の坊さんは、杖をふりまわして犬を追っぱらおうとした拍子に、側にあった竹の籠にひっかかって、籠が犬の頭にスッポリとかぶさってしまった。犬が籠をかぶって走りまわる姿が非常に可愛く、おかしかったので、周囲にいた人々は、皆いっせいに「ワッハッハ」とわらいころげた。それで竹かんむりに犬と書いて「笑う」という字をつくらはったんやと。」
 これ程の繁栄を誇った大安寺も、長年の間には、度重なる戦火や火災に焼失したり、大地震の被害にあったりしたが、人々の篤い信仰心に支えられて、再興したり崩壊したりの栄枯盛衰を繰り返した。そして昭和のはじめ、日本が戦争への道を歩み初めた頃は、南都七大寺のうち、大安寺と元興寺は、塔跡や遺跡だけ残して、亡びさったと一般には思われていた。元興寺町に住む私達が、極楽坊という荒寺があることは知っていても、それが元興寺の僧坊であったことを知らなかったように、大安寺の村の人達も、大安寺というより、「お大師さん」として認識しておられたようだ。しかし、昭和十五年現貫主が就任して来られて以来、刻苦奮励、境内の整備、伽藍復興、年中行事等、往古の面影を復興して頂いたのは有難いことだ。上記の二寺のみではなく、名刹、古刹と呼ばれるようなお寺は、いずれも苦難の時代を通り抜けてこられたのであろうが、天災、地災、人災にも決して亡ぶことのなかった信仰心で法灯を守って来られたことは、限りなく尊いものであると思う。