第32回(1997年12月号掲載)

大安寺 その2 

 大安寺は歴史の古い大寺だけに、日本書記や懐風藻(日本最古の漢詩集)等、古代文学にしばしば登場する。この中から、わかりやすい仏教説話や伝説を拾ってみよう。

▼「日本霊異記」上巻三十二条
 神亀四年九月、聖武天皇は群臣と、添上郡の山村の山で狩猟をされた。その時、一匹の鹿が逃げて、細見の里の農家に走り込んだ。家の人達は、これは幸とばかりに鹿を殺して食べてしまった。このことが、天皇に知れて、鹿を食べた男女十余名は逮捕されることになった。
 彼らは恐怖のなかで、唯々大安寺の仏様にお祈りするばかりであった。そして、「私達が役所へ参ります時、寺の南大門を開いてください。鐘も鳴らしてください。」と頼みこんだ。さて、農民達は授刀寮(宮中護衛の詰所)に監禁された。ところが、ちょうどその時、折良く皇子が誕生されたので、朝廷は慶祝気分にわきたち、天下に大赦令を下して罪人を釈放した。かくて農民達は無事に家に帰ることができたのである。これはひとえに、大安寺の丈六佛のご加護であった。
【註】「日本霊異記」は、薬師寺所属の僧、景戒によって編纂された我が国最初の仏教説話集である。景戒は紀伊の国名草郡の豪族の出身で、中央の薬師寺に来て、唯識の教学を学んだ。景戒は、高僧として寺院の奥にとじこもるより、巷間に出て、悩める民衆に仏の教えを説き、庶民を救済したいと考えていた。そこで、一般民衆に仏の慈悲を分かりやすく、親しみやすい形の話としてまとめたのが、この上、中、下、三巻からなる「日本霊異記」である。

▼「日本霊異記」中巻二十四条
 楢の磐嶋は左京六条三坊の人で、大安寺の西の里に住んでいた。彼は大安寺の御用商人として寺の「修多羅衆銭」を借用し、敦賀まで商売にでかけた。その帰り、急に病気になり、一人、奈良の家へ向かった。唐崎、宇治橋といそぐ道を、三匹の鬼が追いかけてくる。気味が悪いので聞いてみると、「閻羅王の使いで磐嶋を召しにきたのだ。」と答える。驚く磐嶋を尻目に「じつはお前の家まで行ったのだが、寺の守護神である四天王に、寺のために商売に行っているのだから許してやってくれと頼まれた。こうしてお前を探し求めているうちに空腹で困っているのだが、何かないか。」という。磐嶋は持っていた干飯を鬼たちに与えた。鬼は、「お前の病気は、われわれの気によるものだ。あまり近づくな。しかし恐れることはないぞ。」という。それを聞いて、磐嶋は当時の習慣にならって、珍味を供えて饗応した。すると鬼は本音をはいて、「我々は、牛の肉が好物なのだ。準備をして貰えないか。牛をとる鬼とは我々のことだ。」と、はっきり言った。磐嶋はすかさず、「牛の肉は差し上げるから、冥府行きは堪弁して頂きたい。」と頼み込んだ。ここで取引は成立し、ほどこしに対して恩を感じている鬼達は、相談の結果、磐嶋と同じ戊寅生まれの相八卦読み(易者)を、かわりに連行することになった。そして鬼達は、「閻羅王に罰せられるのをのがれるため、我々の名をよんで、金剛般若経百巻をよんでくれ。」と、それぞれの名を告げて消えていった。翌日みると、磐嶋の家の牛が、一頭死んでいた。磐嶋はいそいで大安寺の南塔院へ行き、当時まだ沙弥であった仁耀法師に事の次第を話した。仁耀が二日かかって百巻のお経をよみあげると、翌日鬼がお礼を言いにやってきた。そして、磐嶋は九十余歳まで長生きしたということである。
【註】「修多羅衆銭」というのは、大安寺修多羅衆の費用として施入された基金のことで、これを元金として貸し出し、その利息を修多羅衆の費用に割り当てていた。大安寺の修多羅は、大般若経を読誦したり、論議したりする研究組織で活発な活動をしていたから、その研究組織をより充実させるためるにも、この基金を有効に活用してくれる磐嶋のような商人は、どうしても必要だったのだろう。

▼「日本霊異記」下巻十九条
 肥後の国八代郡の豊服氏の妻は、懐妊して肉の塊を生んだ。それは卵のようなものなので、夫婦は山の石の中に隠しておいた。七日経って行ってみると、卵の中から女の子が生まれていた。赤子は急速に成長したが、あごが殆どなく、身の丈は、三尺五寸(一米あまり)程であった。しかし生まれつき利口で、幼い時から、種々のお経を転読した。そして遂に出家を願い頭髪をそり、袈裟をつけて佛道をおさめ、人々を教化した。多くの人達は、彼女に帰依したが、一方、この尼僧を猿聖といって馬鹿にする者もいた。それは背が低く、身体の各部が未発達であったからである。
 ある時、大安寺の高僧戒明大徳が、筑紫の国の大国師に任じられて九州に滞在していた。宝亀年間に、佐賀郡の大領が、戒明を招いて安居会を催した。その講義に例の尼僧は毎日出席したが、戒明は彼女を嫌って拒否しようとした。そこで、戒明と尼僧は、仏法をめぐって論議したが、戒明は尼僧の質問に答えきれず、とうとう大衆の面前で敗北してしまった。
 尼僧の主張は、「仏様は平等の慈悲心を持っておられ、衆生のために正しい教えをお広めになる。どうして特に私だけを、のけ者にするのですか」というところにあった。ここに於いて、大勢の人は、この尼僧を敬い、舎利菩薩と名づけて指導者となした。
【註】中巻の話に出てくる仁耀、下巻の戒明大徳も、奈良朝の末期頃、大安寺におられた実在の人物である。
 戒明は讃岐出身で、大安寺の慶俊に師事し、華厳経を修学した。後に唐に渡って修業したエリート型の学問僧。仁耀は、大和の葛城出身で、幼くして僧籍に入ったが、背が低く、風采が上がらなかったので、道ゆく人にまで馬鹿にされたという。しかし刻苦勉励して高僧となり、延暦十五年七十五歳で入寂した努力型の高僧。
 九州から風の便りに伝わってきた、戒明と尼僧の話を仁耀は奈良にあって、どのような気持で聞かれたであろうか。