第31回(1997年11月号掲載)

大安寺 その1

 大安寺の草創は、聖徳太子が平群郡熊凝に熊凝道場を開かれたのに始まり、ついで舒明天皇が百済川畔に百済大寺を建立された。これを天武天皇が高市郡の飛鳥に再興されて高市大寺となり、大官大寺と号した。平城遷都にしたがって平城左京六条四坊の現在の地に移され、大安寺となった。東大寺建立までは、官寺の筆頭の寺として栄えたそうである。その堂塔の壮麗さを物語る次のような伝説がある。
 その昔、大安寺には黄金造りの東塔と西塔があった。このきらびやかな黄金の光は、遠く野山を越えて、大阪や堺にまで達したという。ところが、この光におびえて、魚達が大阪や堺の海に寄りつかなくなったので、漁をなりわいとしていた人達は、暮らしにも事欠くようになってしまった。困った漁師たちは、遂に大挙して大安寺を襲い、焼打をかけて、この華麗な塔を焼き払ってしまった。文化的には莫大な損失であるが、漁民たちは、やっともと通りの生活が出来るようになったと伝えられている。この塔跡は、今も大安寺町南の畑の中に「史跡大安寺塔跡」として残っている。明治の初め頃、この塔の礎石を売って金にしようと思った大工が、石を割ろうとしたところ、石の中から真赤な血が噴き出して、その大工は正体不明の病気にかかって死んだと伝えられる。それ以来、この礎石に手をつけようとする人はなく、石は静かにまどろんで、往古の夢にふけっている。
 毎年一月二十三日の光仁会笹酒まつりの日は、日頃静寂な大安寺の境内は人にうめつくされ、周囲の道路には参詣者が列をなして、人に押されながらお参りするという程の活況を呈する。
 風雅な青竹づくしの法会のあとにふるまわれる「笹酒」が癌封じのおまじないになるといって、奈良県内は勿論、他府県からも笹酒をいただきに来る信者さんが多い。由来は、光仁天皇が不遇であった白壁王時代、しばしば大安寺を訪れ、境内の竹を伐って、林間で酒をあたためて召し上がった為、無病息災を保たれ、六十二歳で運が開けて皇位につかれたという寺伝によるものである。
 笹まつりの日は、境内のあちらこちらに焚火がたかれ、それに青竹の三本足を組み、太い青竹の節を抜いた竹筒に酒を満たし、上部を三本足に吊して、焚火で酒を温める。参詣者は、小笹のついた青竹の盃をお寺から一ケづついただき、これに温まった筒の酒を注いで貰って飲む。酒をそそぐのは、若い娘さん達のご奉仕で、和服に紅いたすきをかけた初々しい姿で青竹の酒をついでくださるのは、それだけでも画になる光景だ。笹酒が不老長寿の薬だと人気があるのは、この故事によるだけではない。大安寺現貫主の河野清晃師は、今年九十二歳になられるが、お元気そのもので、毎年二月十五日の涅槃会には、インド、クシナガラの涅槃堂へお参りに行かれるし、年に一度は四国八十八ケ所を巡拝されるそうだ。非常に達筆なので揮豪をお願いすると、お名前の上に、八十八又四と書かれる。八十八+四で九十二歳と、洒落心もある。
 洒落といえば、此の間、萬京の総支配人の西上さんが、「人間、長生きしようと思ったら、おしゃれを忘れたらあきまへんなあ。大安寺さんなんか、ほんまにおしゃれですよ。」とおっしゃっていた。事実、紫の衣に赤い袈裟をかけて、頭に仏教東漸の道であるシルクロードで買って来られた帽子をかぶり、赤い長い杖を持って、飄々と、しかも意外に早足で歩かれる姿は仙人のようでもあり、モダンで若々しい。竹にはビタミンC,K,Eをはじめ、カルシウムやクロロフィル等を含有していて身体に良いそうだが、河野貫主のこの矍鑠ぶりも、年々笹酒に集まる人が多くなる理由の一つだろう。「貫主様のみならず、町の方達全体が長寿なんですよ。」と新たな伝説が加わってほしいものである。尚、笹酒は六月二十三日の竹供養の日にも、癌封じ夏祭としてふるまわれる。
 大安寺は、御霊神社のご祭神のお一人早良親王にもゆかりの深いお寺である。
 早良親王は光仁天皇と中宮高野新笠の間に生まれられた第二皇子であるが、幼い頃から神仏をうやまう心が篤く、東大寺登定僧都を師として十一歳で出家され、二十一歳で登壇受戒して修練修学に励まれた。神護景雲二年(七六八)大安寺東院に移られた。当時大安寺にあった、(説話等にもよく出てくる)丈六の仏様は、彼の発願によって造立されたものという。七八一年桓武天皇即位のあと、皇太子となられたが、七八五年、冤罪によって皇太子を廃され、淡路島へ配流される途中、亡くなられた。ご遺体は、淡路島に葬られたが、前に御霊神社の項で誌した通り、鎮魂のため、大和の八島に陵を造って、改葬し、崇道天皇と追号された。
 昭和六十年は、崇道天皇千二百年のご遠忌に当たったので、それに先立ち、河野貫主や郷土研究の先生方が、淡路島の各伝承地や八島陵、崇道天皇社等を巡拝され、遺跡の調査をされたそうだ。同年十月一日には、高松宮殿下のご参列のもとに、千二百年御遠忌式が荘厳に厳修されたという。