第30回(1997年10月号掲載)

御霊神社

 奈良町の中心に位置する御霊神社は、氏子地域七十余町、戸数五千余戸の氏子を持つ、県下でも最も氏子が多いと言われる神社である。それには次のような伝説がある。
 御霊神社から北へ約三百メートル行った今御門町に道祖神のお社がある。昔、御霊神社の神様と、道祖神の神様が博打を打って道祖神が負け、その氏子の殆どを御霊神社にとられてしまった。だから、御霊神社は今でも沢山の氏子を持っており、道祖神のほうは、今御門、東寺林、西寺林だけで維持しておられるというのである。道祖神は今でも「博打の神様」と呼ばれて人々から親しまれている。
 しかし御霊神社のご祭神は、道祖神を相手に博打を打たれたとは信じがたい、やんごとなき方々である。
 先ずご本殿にお祀りされている井上皇后と他戸親王は、第四十九代光仁天皇の皇后と皇太子であった。しかも皇后は、聖武天皇の皇女で井上内親王と申し上げていたお方。従って、他戸親王はその孫に当たらせられる第一級の皇族である。
 内親王は白壁王の妃となられ、白壁王が即位し光仁天皇となられると同時に、皇后の位につかれた。他戸親王は皇后のお子様なので、御年三十六才になられる、異母兄、山部親王(後の桓武天皇)がおられるにもかかわらず、御年十二才で皇太子となられた。
 ところが、藤原百川を中心とする陰謀によって、天皇を呪詛したという冤罪をきせられ、宝亀三年(七七二)皇后・皇太子の位を廃して井上郷の籠居に幽閉されてしまった。天智天皇系の光仁―桓武の皇位継承を確立するため、天武天皇系の井上―他戸を廃そうという企てである。
 翌七七三年、天皇のお姉さまの難波内親王が亡くなられたのは、廃后の厭魅(妖術で人をのろうこと)であるとして、大和国宇智郡須恵庄に移され、それから一年半後の七七五年四月二十七日、母子日を同じくして亡くなられた。お二人は生きながら龍になられたと伝えられ、百川は怨霊となった皇后に悩まされて三十八才で頓死したそうだ。さらに、宮中でもいろいろ怪しいことがおこり、風神雷神が荒れ狂って人々を悩ませた。これは、お二人の祟りであるとして、墓を改葬して山陵とし、皇后位を追復して、吉野皇太后と追称したり、諸国の国分寺で金剛般若経の読経をさせたりして、怨霊をなぐさめられた。けれども祟りはなかなかおさまらず、疫病がはやったり、天変地異が後をたたないので、非業に死んだ皇子達を神としてまつり、井上皇后には、御霊大明神の官位を奉ってお祀りすると、お怒りも和らいだのか、天下泰平と国土安隠を守る神様になられたという。
 本殿東側社殿には、早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人(藤原吉子、伊予親王のお母様)がお祀りされている。早良親王は、光仁天皇と中宮、高野新笠の間に生まれられた皇子で、桓武天皇の実の弟君にあたられる。早良親王は十一才の時に出家して、東大寺に住んでおられたが、景雲二年(七六八)大安寺東院に移り住まれた。七七○年、親王の号を奉られ、七八一年にお兄様の山部親王が即位されると同時に皇太子となられた。しかし、七八五年、中納言藤原種継射殺事件に連座したとして乙訓寺に幽閉され、皇太子を廃される。親王は、その後十数日間食を断ち、淡路島へ配流される途中で死亡されたが、そのご遺体は淡路島に送られて埋葬された。その後、皇太子の安殿親王が病に悩まされたり、疫病が流行して多くの人が死んだりするのは早良親王の祟りであるとして、墓を改めて山陵としたり、僧二人を淡路島に遣わして読経させ、親王の霊に鎮謝された。それから十年程の後、ご遺骨を大和の地に迎え、添上郡八島の陵に改葬し、早良親王に天皇位を追尊して、崇道天皇とした。奈良市だけでも、西紀寺町、出屋敷町、神殿町、北永井町と、崇道天皇社が四社もある。
 本殿西側社殿には、伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿がお祀りされている。
 伊予親王は、桓武天皇と、藤原大夫人の間に生まれた皇子である。政治的力量にも恵まれ、管弦も巧みで、桓武天皇の信頼も篤く、天皇は巡幸や狩猟の際、よくその山荘に立ち寄られ、歓楽を共にされたそうである。しかし、桓武天皇が八○六年に崩御された翌年十月、政治的陰謀事件がおこった。反逆の首謀者とみなされた藤原宗成が、捕えられて尋問されたとき、「伊予親王こそ真の首謀者である」と主張した為、平城天皇は親王母子を捕え、川原寺に幽閉された。無実を主張する親王と母は飲食を断ち、親王の地位を廃された翌日、十一月十二日に毒薬を飲んで自殺された。後に、無実であったことが明らかになり、人々はこの悲劇に心から同情すると同時に、その祟りに畏れおののいた。
 橘逸勢は、平安時代の三筆の一人として、興福寺南円堂のご宝前の銅燈籠の名文を書かれたほどの能筆家であったが、承和の変に加担したという、あらぬ疑いをかけられて、拷問を受け、伊豆に流される途中で病死した。
 藤原広嗣も文屋宮田麿も当時の複雑にからみあった政治葛藤に巻き込まれて非業の死を遂げた人達である。当時、怨みをもって死んだ人達の怨霊は、この世にたたりをなし、災をおこすと信じられていた。奈良時代の末頃から平安初期にかけて、こうした怨霊を慰め、鎮め奉ることによって、その威力を借りて災害を逃れ、守ってもらおうという御霊信仰が盛んになり、御霊会を営んで社会不安を一掃しようとする動きが活発になった。御霊神社はそのはしりをなす、桓武天皇勅願によって創立された格式のある神社である。
 けれども、私達奈良町に住む氏子達は、ご祭神がそんな不幸な運命にもてあそばれた、高貴な方々であるということについての関心はうすく、子供の頃から、「ゴリョーさん、ゴリョーさん」といって親しみ、敬ってきた。十月十二日の宵宮には、道の両側に沢山の露店が出て、子供の好きなお面や綿菓子、みたらしなどが売られ、神社にお参りするのも人に押されながら歩くほど賑わった。十三日のお祭りには、お神輿の渡御に従って稚児や獅子、天狗等のお渡りが出る。長いたもとの晴着を着せてもらった子供達にとって、お祭りは一年中のハイライトであり、神社の境内は、常時安全な遊びの場であった。
 千二百年もの間、丁重におまつりされ、人々から崇敬された御霊八所の大神様達は、怨恨を昇華させ尽くして、より高い神位と広大なご神徳を持たれたのであろう。今まで人間世界の日本というピラミッドの頂上近くにいて、天皇という頂点のみを見つめておられたのが、より高所から見ることによって、ピラミッド全体、底辺まであまねく照覧されて、我々庶民まで、あまねくご守護して下さる優しい神様になられたのであろう。ゴリョーさんを慕い、境内に集まる子供達を見ると、尚一更、その感を深くする次第である。