第29回(1997年09月号掲載)

辻子(ずし)

◆ハッチャン辻子とキツネアン辻子
 元興寺の中程にある私の家の前から川ノ上町に通じる道にそった町を納院町という。元興寺の封綱蔵の跡と伝えられている。中世の頃、この町に蜂屋という長者がいた。金銀財宝を地中に埋め、砥石で囲んでおいたが、後に曽孫がこれを堀ると金銀財宝はみんな石になっていて役に立たなかったという話が残っている。又、蜂屋は鉢屋とも書き、鉢屋のご主人はお茶人で、井戸の底に金塊を沈め、その水でお茶を点てられたともいう。この町の東寄り、南側に蜂屋神社という祠があるのが、この蜂屋長者に関係があるようだ。そういえば、私の子供の頃は、納院町のことをハッチャン辻子とよんでいた。子供のことだから、ハッチャンというひとが住んでいるのかと思っていたが、「蜂屋の辻子」の意味だったのだろう。納院町を出て川ノ上町に入った所に、今は児童公園になっているのが、大蔵流狂言発生の地で、総家の屋敷跡だと伝えられている。
 ハッチャン辻子からもう少し北へ行って、今は芝突抜町と呼ばれる町は、昔は、キツネアン辻子と言った。「奈良坊目拙解」には、この町には甲冑の組糸師が住んでいたとある。組糸を組んでいた女の人のなかに、いつも真っ白に白粉をぬっていたひとがあって、それを人々が、白狐のようだと言ったところから、「狐ヶ辻子」と呼ばれるようになったということだ。私の子供の頃もまだ通称キツネアン辻子であった。

◆百万辻子と今辻子
 三条通りにある開化天皇陵の南東、ホテルフジタ奈良の裏側辺りに、百万辻子という町名が残っている。近くのきとらさんという果物屋のご主人の話では、昭和の初期位までは、林小路から今辻子にいたる細い道があって、百万辻子と呼んでいたが、今は道が一部とぎれて町名だけが残っている。
 百万辻子は世阿弥の謡曲「百万」の主人公百万が住んでいたところといわれる。
 百万は若いころ春日大社の巫女であったが、後に一人の男の子をもうけた。あるとき、西大寺で法要があったので、この子を連れて参詣したが、雑踏の中で子供を見失ってしまった。百万は気が狂ったようになって、あちこち探し求めたが、どうしても見つけることができなかった。一方、吉野の奥から出てきた雲水僧が、西大寺の柳のかげで迷子になっていたその子を拾い、各地を行脚するなかで、京都嵯峨野の清冷寺の大念仏会にお参りした。その時、烏帽子に舞衣装をつけて、黒髪を振り乱した狂女が出てきて、念仏踊りを始めた。
 それをしばらく見ていた子供は、「あの狂女は私のお母さんです。よく問うてください。」と叫んだ。雲水僧は、おもむろに「あなたは如何がなる方ですか。」と狂女に問いかけた。「わらわは、もと春日の巫女ですが、夫に早く死に別れ、一人の子を西大寺の法要に連れていって見失ってしまいました。このようなあさましい姿を人目にさらすのは恥ずかしいことですが、群衆の中から我が子に巡り会わんためなのです。」と涙ながらに答えた。子供に引き合わせると、百万は「これもかたじけない御仏の功徳よ。」と、いたく打ち喜び、親子抱き合って嬉し涙にむせんだ。狂女であったのも、たちまち、正気にたちかえったという。
 百万の子は清涼寺で仏門に入り、道浄和尚といったが、後に唐招提寺に入り、この寺の復興に努めた高僧となったと伝えられる。
 今辻子の通りを東に入った西照寺には、この百万の墓と伝えられる供養塔があり、今も謡曲をたしなむ人達がよくお参りに来られるそうだ。古い立派な五輪塔で、隣に立っている徳川家康の供養塔より、はるかに大きい。道浄和尚は、苦労した母親に大変孝養を尽くされたということだから、死後も丁重に供養されたのであろう。
 油坂は、中世には符坂庄といい、油坂座衆、符坂油座があり、油商人が住んでいた。春日大社や興福寺等寺社への灯明はもとより、大和国中に手広く油を売りさばいていた。今辻子は符坂の油商人たちの居住地として発達した町で現在奈良の町名で「今小路」「新在家」「今辻子」等、「今」「新」などが町名についているところは、新たに住宅がたった町ということだが、奈良は歴史の古い町だけに、元禄二年(一六八九)に今辻子には、すでに五十八軒の住居があったという記述がある。
 奈良町には辻子と呼ばれる細い通りがあちらこちらにあって、通りと通りを結んでいる。