第28回(1997年08月号掲載)
興福寺五重塔
田道間守と非時香菓
 天平二年(七二九年)光明皇后は、興福寺東金堂の南隣に五重塔の建立を発願され、その年の暮れに完成したと伝えられる。その後、何度か兵火にかかったりして焼失したが、その都度、篤い信仰心によって再建され、猿沢池から眺める五重塔は、古都奈良の象徴と言われてきた。
 その五重塔が思いがけぬ危機にひんしたのは明治初年のことであった。慶応三年(一八六七年)、徳川慶喜よりの大政奉還を受け、翌年、明治新政府が成立した。年号が明治に改まったのは慶応四年九月八日のことであるが、それに先だち、同年三月、祭政一致を目指す維新政府によって神仏分離令が発しられ、それまでの神仏混淆は禁じられた。春日大社と一体化していた興福寺では、お坊さんは皆還俗して神官となって春日大社に勤めることとなり、興福寺が無住となったことがあるそうだ。
 続いておこる廃仏毀釈の波で、堂塔は荒廃するし、明治四年(一八七一年)には寺領も没収されてしまい、中金堂は県庁舎、食堂は寧楽学校舎として利用されることになった。その頃、五重塔も取り払おうというので入札が行われ、十五両で落札された。解体のためには足場をかけなければならず、思ったより費用がかかるため、落札者は逃げてしまったそうだ。その後、五十円で買って、焼いて金具だけ取ろうとした人もあらわれたが、類焼をおそれた近所の人達の猛反対に会って焼くことが出来ず、おかげであの美しい塔が残ったという。この落札金額については、五円から二百五十円まで、さまざまな説があるが、いかに物価の安かった時代とはいえ、あの立派な塔がそんな値段で売買されようとしたなんて、ウソのような話だ。
いらかの波と雲の波/重なる波の中空を
橘かおる朝風に/高く泳ぐや鯉のぼり
 風薫る五月、この歌を聞くと、私は我が国にはじめて橘をもたらしたという、田道間守を思い出す。そして、美味しい蜜柑を食べると、非時香菓に思いを馳せて、往古は天皇様といえども、こんな蜜柑は召し上がれなかったのだなと想う。
 上古、第十一代の垂仁天皇は、池や水路を整備して農業を振興したり、はにわを作って殉死をやめさせる等、仁徳の高い天皇で、人々から敬慕されておられた。
 ある時、天皇は田道間守をお召しになって、「常世の国には、ときじくのかぐのこのみ(非時香菓)という珍しい果物があるということだ。その香は、えもいわれぬ程かぐわしく、不老不死の薬になると聞く。田道間守よ、お前に常世の国に行って、その木の実を採ってきてくれないか。」と仰せつけになった。日頃から天皇をお慕いしていた田道間守は、どんなに苦しいことがあっても、この実を探し求めて、天皇に長生きしていただこうと心に誓った。
 常世の国というのは、遥に海をへだてた遠い遠いところにあると、うわさに聞いていても、誰もまだ行ったという人はいない、幻の国のようなものだった。まして当時の航海は、風まかせ運まかせのような危険きわまりないものである。一大決心をして船出をした田道間守の船は襲いくる高波にのまれたり、潮に流されて逆もどりしたり、あちらこちらをさまよい、血のにじむような苦労を重ねた。やっと念願の木の実を手に入れて帰国したのは、出発から十年の後のことであった。
 その間、田道間守の帰りを今か今かと待っておられた天皇は、病におかされて崩御されてしまった。天皇に献上して喜んでいただこうと、意気揚々と帰国した田道間守を待ち受けていたのは、垂仁天皇の死という悲報であった。
 田道間守は悲しみにくれながら、持ち帰った非時香菓の半分を垂仁天皇の皇后に献上し、残り半分を、天皇の御陵の前で捧げ持ち、「只今、命を受けました常世の国の非時香菓を、ここに持ち帰りました。」と涙で報告した。深い悲しみに、繰り返し繰り返し泣き叫びつつ、とうとう天皇の御陵の前で息たえてしまった。
 その様を見た人達は、みんな貰い泣きし、せめて天皇の側で、その霊をなぐさめようと、御陵のお濠の中に田道間守のお墓がつくられることになった。今も奈良市尼ケ辻町にある垂仁天皇陵のまわりの、まんまんと水をたたえたお濠の中に、ぽつんと船のようにうかんでいる小島が、田道間守のお墓だということだ。
 ときじくのかぐの木の実は、「田道間花」がつまって、「たちばな」になったのだろうと言われている。なにしろ日本に於ける柑橘類の元祖である。
 垂仁天皇は、三輪山の西北のふもと、穴師という所にあった纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)を皇居としておられたが、今は蜜柑畑のひろがる大和の蜜柑所となっている。
 穴師も尼ケ辻も奈良町からは少し離れているが、木の実は昔、菓子として扱われたところから、先に誌した林神社に菓祖神 田道間守命として、饅頭の祖 林浄因命と合祀されているので、この伝説も加えた。