第27回(1997年07月号掲載)

興福寺南円堂

 平成三年から修理工事のため覆いがかけられていた南円堂が、見事に昔日の面影を取り戻して、平成九年四月五日から七日まで、盛大な落慶法要が挙行された。
 南円堂は弘仁四年(八一三年)藤原冬嗣が父内麻呂の追善供養のために建てた堂宇である。南円堂建立の折は、春日明神が工人の中に交じって土石を運んで嘉され「補陀落の南の岸に堂建てて 今ぞ栄えん北の藤波」という神歌を下されたという伝説がある。補陀落山とは観音様のお住いになっている浄土のことで、「補陀落山は八角の山なり。彼山は藤の花さかりにしげし」と伝えられるところから、南円堂も八角の堂とし、堂の前には藤が植えられたそうである。
 南円堂はこうして、藤原氏の氏寺、殊に北家の象徴として建てられたものであるが、ご本尊の不空羂索観音様は、左第四手に持たれている羂索(鳥や獣を捕える網や綱)によって、人々の願いを残らずすくいとって叶えて下さるというので、時代が下るにつれて、庶民からも篤く信仰されるようになった。
 南円堂信仰が庶民へと大きく裾野を拡げたのは、西国三十三ケ所観音霊場の第九番札所として巡拝する人が多くなったからだろう。西国三十三ケ所の霊場は長谷寺の徳道上人が、はじめて開かれたものと伝えられる。徳道上人は養老二年(七一八年)二月十五日に一度亡くなられた。冥土に行ってえんま大王の前に行くと、えんま様が「今の衆生の地獄に落ちる者は芥子の実をまく程多い。地獄の苦しみは口では言いつくせない位だ。日本には観音様の霊場が三十三ケ所あるから、信心深く菩提を求めて巡礼すれば、極楽に行くことが出来るであろう。あなたは、もう一度人間界に帰って、皆に観音の霊場を教えてやってくれ。そんなことを言っても人々は信じないだろうから、証拠に宝印を授けよう。」と言って朱印を授けられた。蘇生された徳道上人は、朱印の霊験によって三十三観音霊場を行脚して開基されたということだが、その頃はまだ、一般人が巡礼をするところまでゆかず、巡礼道も荒れ果てていたようだ。
 それから二百七十年程たって、花山天皇が世の無常を感じて出家され、法皇となって熊野で修業された。そこで徳道上人の霊異を聞いて、親しく巡礼され、霊場を再興されてから、三十三ケ所のの巡拝が盛んになった。南円堂が建立されたのは、徳道上人より後のことであるから、九番の札所になったのは花山法皇再興の時であろう。(それまでは興福寺として札所になっていたのかも知れない。)
 十年程前、この花山法皇の霊場再興一千年の記念事業として、一番札所から三十三番まで、延べ千キロを超える古道を歩いて、法灯を巡送されたことがあった。
 一番の那智山で採火された聖火が、南円堂へ長谷寺から丁重に送り届けられたのは一九八七年五月十七日の夕方のことだった。その日は朝から激しい雨が降っていた。法灯巡礼のご一行は、南円堂にお入りになる前に、私の家で少し休憩をして、服装も整え威儀を正して南円堂にお入りになることになっていた。準備をしてお待ちしていたが、午前七時に長谷寺を出られたというご一行は、雨に難じゅうされたとみえて、薄暮の頃になって、やっと到着された。しとどに濡れたご一行は、それでも「ここから先は、たとえどんなに雨が降っていても合羽は着ません。」とおっしゃり、脱がれた合羽をたたんだり、手足を拭いて服装を整えたりしておられた。その間に、さしもの雨もピッタリやんで、ご一行が隊伍を正して南円堂に向かわれるのを、家族一同合掌してお見送りをしたのもなつかしい思い出だ。
 こうした歴史を重んじられてか、南円堂の平成大修理の落慶法要の中日の四月六日は、西国三十三ケ所の座主様方が全員参列して法要が営まれた。金襴の袈裟をつけて居並ぶ座主様方の頭上に散華が舞い、声明が響き渡る光景は、さながら極楽浄土を目のあたりにする観があった。
 平成大修理を記念して、従来宝前にあった国宝の燈籠が復元され、五月十八日に除幕式が挙行された。現在、興福寺国宝館に収蔵されている、従前の燈籠の火袋の羽目に鋳出されていた銘文は、弘法大師の撰で橘逸勢の筆という、天下の逸品であるが、第五面の羽目と頂上の宝珠が失われていた。
 今回、複製設置された燈籠には、陳舜臣先生の撰文になる「平成の観音讚」を今井凌雪(潤一)先生が謹書された羽目がはまっている。いずれも当代の第一人者である。
 陳先生は沈思熟慮して、昭和の戦火から、平成の平和、そして大震災、今も続いている世界の戦火を讚文に読みこまれ、過ぎ来し時代から未来への願いをこめて、この讚文を作られたそうだ。苦しみが極みに達したとき、観音力によって救われる様子を、観世音普門品の経文をちりばめることで現した、誠に見事なものである。陳先生は神戸市の生まれであり、日中戦争の時は、先祖の国と生まれた国の、二つの祖国が戦うという葛藤を味あわれたであろうと思うと一層心に秘みる名文である。
 しかし奈良町の人達にとって、二月堂さんとか南円堂さんというのは、名刹であるとか、札所であるとかを超越した、大好きな親戚のおばさんといった感じの仏様なのである。悲しいことや困ったことがあったら走って行って聞いて頂く、嬉しいことがあれば報告に行く、これが「にがつとさん」や、「なんえんどさん」の観音様である。南円堂は町に近いせいか運動を兼ねて日参する人が多く、二月堂では、今もお百度を踏む人の姿がよく見受けられる。