第26回(1997年06月号掲載)

率川神社と三枝祭

 率川神社は、推古天皇の元年(五九三年)二月三日、勅命により、大三輪君白堤が創建した、古い歴史と由緒をもつ神社である。
 この神社の特徴は、主祭神の姫神様を中央に、それを慈しむかのように、向かって左に父神様、右に母神様と、三殿並んでお祀りされていることである。その様子は、あたかも、ご両親がお子様を守っておられるように見えるところから、一般に、子守明神と呼ばれ、安産、育児、息災延命の神として崇敬されている。そうした理由から、神社のある町の名を「本子守町」、その奥にある町を「奥子守町」と呼ぶようになったという。
 中殿の御子神は、媛蹈  五十鈴姫命。人皇第一代神武天皇の皇后様として内助の功の高かった方で、綏靖天皇のお母様。皇后様を主祭神としてお祀りした神社は、全国でも珍しいそうである。左殿はお父様の狭井大神。大神神社の大物主大神、出雲大社の大国主神と同じ神様とのこと。右殿には、お母様の玉櫛姫命がお祀りされている。
 日頃は森厳な静寂さの漂う境内が、一気に華やかに変貌するのが、三枝祭の執り行われる六月十七日である。三枝祭は、「ゆりまつり」としてその名を広く知られる、馥郁とした優婉な祭礼である。その日は、御巫さんが三輪山で摘んでこられた笹百合で神前が荘厳される。さらに、黒酒、白酒を、「  」、「缶」という酒器に入れて、その酒器を香りたつ笹百合でふさふさと飾り、優雅な楽の音につれてお供えされる。面映ゆげに首をかしげた薄紅色の笹百合は、汚れのない乙女の姿を思わせ、その芳しい香りは、古代への夢をかきたてる。
神前では、厄除け祈願の祝詞が奏上され、巫女達による古雅な神楽が奉納される。それは、あたかも、若葉の下で繰り広げられる古代絵巻で、美しかったであろう五十鈴姫命を彷彿させる。神社での祭典の後は、七媛女、ゆり姫、稚児などによる、あでやかなご巡行が、奈良の繁華街を練り歩く。また、お供えされた笹百合の花は、疫病除けになるといわれ、参拝者によって持ち帰られる。
  ゆりまつり御神燈にも百合描かる
  稚児の手をひく母親は浴衣がけ
 この幽雅で華麗な祭典の起こりには、次のような伝説がある。天孫降臨された天津神に国譲りされた大物主大神は、三輪の里の狭井川のほとりに住んでおられた。その付近は、笹百合が咲き乱れて、夢のように美しい所であった。ある日、お子様の五十鈴姫が、お供の乙女達と一緒に笹百合を摘んでおられた時、通りかかられたのが、神武天皇であった。天皇は、姫の清らかな美しさに惹かれて、皇后に迎えられた……という、優美でロマンティックな言い伝えである。しかも、この故事は、天津神と国津神の結び付きであり、神話から歴史へ踏み出す一歩としても意義があると思う(※1)。
 率川神社の境内には、事代主神を祀る率川阿波神社もある。事代主神も大物主大神の御子神であるから、まさに親子の神様をお祀りする子守神社である。俗に、恵比須様と呼ばれる福の神は、事代主神のことだという。大国主神は大黒様ともいわれるから、親子の福の神様でもあるわけだ。
 今年(平成九年)のゆりまつりには、「奈良市に万葉歌碑を建てる会」によって建立された万葉歌碑の除幕式が行われる。
  はね蘰 今する妹を うら若み
   いざ率川の 音の清けさ(※2)
作者未詳(巻七・一一一二)
 この碑は、大神神社宮司、木山照道様のご揮毫を、伊予青石の自然石に刻んだもので、姫神様の社にふさわしい、優美な碑である。
 一説には、第九代開化天皇の皇居は、春日率川宮といわれるので、現在の率川神社の辺りは、その宮跡ではないだろうかという話もあるが、つまびらかではない。
 この神社から少し北へ行った所にある漢国神社でも、同じ六月十七日の同時刻に、三枝祭(ゆりまつり)が執り行われる。いずれも、古都奈良ならではの、雅な行事である。

※注1:「天津神」とは、天照大御神の孫である瓊々杵尊が、神命により天から降りてきて(これを「天孫降臨」という)、日本の国を治められたという、天皇家のご先祖。「国津神」は、天孫降臨よりも以前に降りてこられた素戔嗚尊の子孫で、すでに日本の国を開き、治めておられた神々。ここでいう国津神とは、五十鈴姫のお父様の大物主大神のことである。
※注2:「はね蘰」は、しょうぶの葉を輪状にして作った、五月五日につける髪飾り。または、鳥の羽を髪飾りにしたもの。「率川」は、現在ではイサガワと読むが、万葉の頃はイザカハであったというので、故事に従った仮名をふった。