第25回(1997年05月号掲載)

漢国神社と林神社

 奈良のメインストリートである大宮通りと、やすらぎの道の交差点を少し南へ行くと、右側に、「縣社漢國神社」と「饅頭の祖神林神社」という二本の石標に挟まれた参道があり、その奥に、周囲の喧噪をよそに、静寂の気の漂う漢国神社がある。
 「漢国神社」というと、中国からの渡来の神様がお祀りされているような印象を受ける。けれども、この神社の由緒は古く、推古天皇の元年(五九二年)勅命により、大神君白堤が大物主命を、その後、元正天皇の養老元年(七一七年)、藤原不比等が大己貴命と少彦名命を合祀されたという。大物主は大国主命の和御魂、大己貴は荒御魂であるから、御祭神は、天孫降臨の前に、協力して国を治め、呪術、医薬等を教えて人々を慈しまれた三輪系の国津神(地主神)である。
 神社の宝物の一つに、徳川家康が奉納した黒革威甲冑一領がある。慶長十九年十一月十五日、大阪冬の陣の折、徳川家康は真田幸村に破られ、ほうほうのていで奈良まで逃げてきた。漢国神社の前まで来ると、そこに桶屋があって、トントンと桶のたがを締めていた。それを見た家康は、桶屋に頼んで桶の中へ入れてもらった。家康をかくまった桶屋は、素知らぬ顔で、またトントンと桶を叩いていた。さすがの幸村も、仕事中の桶の中に隠れているとは気がつかず、行き過ぎたので、家康は九死に一生を得た。翌日、漢国神社にお礼参りをされた時、御召鎧を奉納されたのが、この鎧だといわれる。
 漢国神社の境内に、林神社という、日本で初めて饅頭を売り出した林浄因をお祀りしたお社がある。奈良が饅頭の発祥の地であるというと、つい、聖武天皇や光明皇后も饅頭を召し上がっていたような連想をしてしまうが、中国の饅頭はともかく、餡の入った和菓子の元祖ともいえる饅頭は、一三五○年に元から帰国した龍山徳見禅師に伴われて来日した林浄因の工夫によるものと伝えられる。
 元来、中国における饅頭の始祖は、三国時代の諸葛孔明だといわれる。孔明が率いる蜀の軍が、中国南方を平定して蜀に帰る途中、暴風雨のために濾水という川が氾濫して渡ることができなかった。地元の孟獲という将が、「ここは蛮地であるから邪気が強く、四十九人の人間の首を切って神に捧げなければ川を渡ることはできない」と言った。しかし、孔明は部下を殺すに忍びず、首の代わりに、小麦粉をこねたものの中へ牛や羊の肉を入れて人間の頭の形を模したものを四十九個作って川の神に奉ると、翌日、氾濫は治まり、孔明の軍は無事に川を渡ることができたという伝説がある。蛮地における儀式に、人の頭の代わりに用いられたところから、蛮頭だったのが、饅頭になったという。
 ところで、日本に来た林浄因は、奈良に居を定め、中国のマントウにヒントを得て、「饅頭」を作り始めた。肉や脂が入ったものは仏様にお供えできないので、小豆を煮詰めて甘葛と塩で味を調えたものを、小麦粉で作った皮に包んで蒸し上げたのが、我が国の饅頭の始まりと伝えられる。フワフワした皮の柔らかさ、餡のほのかな甘さは、人々が初めて口にする美味しさで、「奈良饅頭」として大評判になった。評判が評判を呼んで、御村上天皇に饅頭を献上することになった。饅頭はいたく天皇の御意にかない、浄因は、その後たびたび宮中に召され、天皇より官女を賜ったそうである。その結婚式の時、紅白の饅頭を各所に配り、その一組を、子孫繁栄を願って、丸い石の下に埋めたのが、林神社の裏に今も残っている「饅頭塚」だという。代々砂糖屋を営む我が家にとっては、恩人の神様である。
 良き配偶者を得た浄因は、日本に帰化して、漢国神社社頭の林小路で店を開いていたが、門前市をなす大繁盛で、「日本第一番饅頭処」の看板を許されたそうだ。
 昭和六十一年十月二十四日、林浄因から三十四代目の子孫が経営する塩瀬総本家によって、浄因の故郷、杭州西湖のほとりの聚景園に建立された、林浄因の顕彰碑の除幕式が挙行された。日本からは、梅木林神社宮司、上村奈良菓子工業組合理事長、福岡副理事長等、五十一名が出席して、日中の菓子業界の親善を図られた。林家のご子孫が、今なお、宮内庁ご用達の菓子舗として繁栄しておられるのは、誠におめでたいことである。
 林神社では、毎年四月十九日、例大祭(一名「まんじゅう祭り」)が執り行われる。奈良県をはじめ全国から菓子業者が集まり、祭りは盛大に催される。
 また林家は印刷の祖でもある。林浄因より七代目の子孫、林宗二は、室町末期から桃山初期に活躍した知識人で、歌道にも優れていた。中でも、百科事典の祖ともいわれる、イロハ引きの国語辞典のような「饅頭屋本節用集」を出版したので、印刷業界の祖とも仰がれている。奈良県印刷工業組合では、印刷週間中の九月十五日、顕彰祭を営み、文運隆盛を祈願している。