第24回(1997年04月号掲載)

西光院と裸の仏様

 鳴川を少し北へ上った高御門町に、西光院というお寺がある。高御門町は、もと元興寺の中大門があった所だが、一四五一年十月十四日、小塔院から出火して、元興寺の金堂はじめ主な堂塔が焼失した時にこの門も焼け、その後再建されずに在家の多い町になってしまった。従って、西光院も元興寺の塔頭の一つだと思うのだが、今は東大寺の末寺になっている。
 このお寺にお祀りされている裸形の大師像は、「はだか大師さん」として有名だが、このお大師さん
もユニークな伝説をもっておられる。「いつの頃か、このお大師さんのおへそからお米が湧き出したという。それは、そのたびごとに、住職一人が食べるに丁度よい分量だったが、そのうち、もっとおへそを大きくしたら、もっと米が出るのではないかと思って、おへそを少し大きくしたところ、ぴたりと米が出なくなった。」という話を、現住職が幼い頃、老僧からしばしば聞かされたそうだ。「人間、欲を出したらあかんという戒めでしょうな。」と、西村和昭住職は、人の良さそうな笑みを浮かべられる。
 西光院は、別名「二十日大師」とも呼ばれている。弘法大師は、八三五年三月二十一日に入定されたので、通常お大師さんのご縁日は二十一日とされているのに、このお寺では、逮夜に当たる二十日に法要が営まれるからである。
 また、毎月二十日午前七時から「朝粥の会」が催される。粥は、季節に応じて、豆や芹、芋が入るなどバラエティーに富み、東大寺の清水公照長老の筆による大皿に盛り付けられた各種の漬物も美味しい。お賽箱に「お心持ち」を入れるだけで、誰でも参加できる。顔見知りであっても、そうでなくても、そんなことはおかまいなしに温かく迎え入れてくれる、お寺らしいおおらかさが嬉しい。
 西光院の「はだか大師さん」と聞くと、知らない人は、裸のままお祀りしてあるのかと思ってびっくりされるだろうけれど、お大師様の像は、「密教を守り、弥勒下生に再会するために、大師は入滅に擬して入定している(死んだように装って、禅定に入っておられる)」という説話によるものか、等身大の像は、全く生きた人間のように彫られており、それにお衣を着せてお祀りされている。お衣替えは、五年に一度行われ、古いお衣は細かく切ってお守として信者に配られる。弘法大師の場合は、前記のような次第で、高野山では、生きておられるごとく三度の食事をお給仕しておられるそうだから、生きておられるとして裸形の像を刻んだということも一つの理由であろうが、日本の仏教美術のルネッサンスともいえる鎌倉時代、より写実的にということと、仏様も生きていらっしゃるという考え方の両方から、裸形の像を彫ってお衣を着せるのが流行ったようだ。
 奈良には有名な裸の仏様が三体あり、一体は前記のはだか大師様、一体は伝香寺(小川町)のはだか地蔵尊、一体は 城寺(西紀寺町)に伝わる裸形の阿弥陀如来様である。
 伝香寺のはだか地蔵尊は、一糸まとわぬ裸形で、平素は麻のお衣をお召しになっておられる。像内に納入されていた願文によると、
一二二八年比丘尼妙法が願主となり、二百数十名の結縁を得て、造立されたものといわれる。秘仏であるが、毎年七月二十三日に御開帳をし、午後四時より新しく奉納された御衣にお着せ替えになるそうだ。
  城寺は、紀寺の跡といわれる。縁起によると、開基は行基菩薩で、後に紀有常が再建したので紀寺と呼ぶようになったとある。紀寺はよほど大きなお寺であったらしく、寺名から生まれたと思われる町名の紀寺町も、西、東、さらに北方、南方に分かれるほど広い町である。裸形阿弥陀如来立像は、寺伝によると恵心僧都(平安時代中期)とのことで、非常に美しい尊像といわれている。
 前記の高林寺(※注)にお祀りされている中将姫の像は、お衣をお召しになった像であるが、頭に白絹の頭巾をかぶっていらっしゃる。この頭巾は、藤原豊成卿の末裔である高倉子爵家出身の紅葉内侍が奉納されたものという。