第22回(1997年02月号掲載)

お正月の遊び 弐

◆室内での遊び
 雨が降ったり、夜になると、カルタ、トランプ、双六に興じた。松の内には、あちこちで歌留多会が催されて、互いに友人を招き合った。「歌留多会」と呼ばれる催しで使われるカルタは、ほとんど小倉百人一首で、お客様は若い男女が多く、尾崎紅葉の傑作「金色夜叉」も、歌留多会で見初められた話が発端となっている。子供達も、いつの間にか歌を聞き覚えて、小学校四年生くらいになると、上の句を聞き終わらないうちに下の句が書かれた札を取ることができる子が少なくなかった。子供達が歌の意味まで充分に理解していたとも思えないが、自分の経験からすると、それはそれなりの解釈をしていたように思う。高岡では、「家持を越中の国司として仰いでいたことに誇りをもっていて、今でも、子供達まで万葉カルタをしているので、万葉集の歌をよく覚えている。」と聞いたことがある。耳学問というのは馬鹿にならないものだ。
 そうした意味で、小さい子供達のイロハガルタも重要だ。「いぬも歩けばぼうにあたる」、「ろんよりしょうこ」、「はなよりだんご」、「にくまれ子世にはばかる」、「ほねおりぞんのくたびれもうけ」等のことわざを遊びの中で覚え、それがいつしか、日本人の常識の基礎となっていったのではないだろうか。イロハガルタも、戦争中は、「お母さんは、国防婦人会へ」などという、愛国子供カルタに変わっていった。
 双六も子供達に人気があった。この場合の双六は、「源氏物語」や「枕草子」に出てくるような盤双六ではなく、賽の目によって、ふり出しから上がりにむかって絵の上を進む、絵双六である。江戸時代は、ふり出しが「お江戸日本橋」で、「京の都」が上がりであったであろう「道中双六」は、私達の頃は、上がりは「東京」で二重橋の絵が描いてあった。「出世双六」は、針売りの少年から身をおこして太閤様になった秀吉の物語や、新入社員から社長になるまでなど、いろいろあって、双六としても売られていたが、主に、少年少女雑誌のお正月号の付録として付いてきたものを使っていた。テレビゲームに興じる今の子から見ると、単調な遊びと思うだろうけれど、賽の目の出方によって、「一回休み」とか、「幾目か飛び越し」、または、「出発点に戻る」などのハプニングがあって、結構おもしろかった。

◆カルメラ(軽目焼き)
 伏見のお稲荷さんへ初詣に行く参道で、プーッとよくふくらんだカルメラが売られていた。それを見た途端、私の頭の中には、火鉢を囲んで集った子供の頃の思い出が、その甘い香りと共によみがえった。
 昔は暖房も少なかったので、家族がよく一つの火鉢の回りに集まった。そして、餅やかき餅、さつまいもなどを焼いて食べながら、その日の出来事を話すのが楽しみだった。その中に、カルメラがあったが、お正月は、殊によくカルメラを焼いた。カルメラに使う鍋は銅製で、直径七bくらいの半円形に木の柄が付いていた。この中に、黄双(キザラと呼ばれる、黄茶色の目の荒い砂糖。中双ともいう)と少量の水を入れて煮詰める。最初は大きな泡が立っているが、棒でかき回しながら煮ていると、泡が細かくなって、少し粘った感じになってくる。この時がチャンスで、鍋を火から下ろし、かき混ぜていた棒の先に重曹を付けて、手早くかき回す。すると、今まで蜜状だったのが、プーッと盛り上がって、丸い軽石状のお菓子になる……、というのが理想だが、現実はなかなかそうはいかない。せっかくプーッと膨らんでも、棒を抜いた途端、ペシャンとへこんだり、煮詰め方が少ないと、固まりもしないで蜜のようなままだし、煮詰め過ぎると飴になってしまう。火加減と、かき混ぜ方のタイミングが難しい。重曹が少ないと膨らまないし、多すぎると苦いような嫌な味になる。そこで、重曹と卵の白身を練り合わせたものを使うとよいとか、思いきりかき混ぜられるように、藁を丸くしたものを鍋の底に敷いたらよいとか、工夫が凝らされる。少しの砂糖と重曹で、家族が一晩中笑ったり、おしゃべりをしたりしたものだった。
 「東京せんべい」(「ばしょうせんべい」という所もある)という、焼くと三倍くらいに膨れるせんべいを、より大きくなるように箸でのばしながら焼くのも、お正月の楽しみだった。

◆その他
 美容院で、偶然に平岡さんと隣同士になった。平岡さんは、音声館で子供達に昔の遊びを教えたりするボランティアをしておられるので、以上のほかに、何かお正月の遊びがなかったか、聞いてみた。考えていた平岡さんは、「竹馬があった!」と叫んだ。竹馬は、足をのせる横木をくくり付けた二本の竹に乗って歩行する遊びだ。慣れるまでは低い所に横木をくくり付けるが、上手になるとだんだん高くしていくので、平岡さんは、屋根にとまった羽根を、竹馬に乗った子に取ってもらったことがあるということだ。「昔は、凧でも竹馬でも、みんな自分達で作りましたなあ。」と、美容院の先生も近くにいたお客さんも巻き込んで、話に花が咲く。先生(三重県伊賀地方出身)、平岡さん(お里は大阪だが、子供の頃は、お父さんの出身地である加茂へよく行かれたので、その思い出)、岸さん(桜井方面の農村出身)、私(奈良町)の四人である。「とんども楽しみでしたなあ。私は田舎で育ちましたから、部落ごとに集まって、広い田んぼに注連縄を持ち寄ってとんどをしました。お餅やお芋を焼いて、家族や友人と分け合って食べた味が忘れられません。」……。とんどは、ここで話をした四人の中で、三人までは十五日に焼くと言うが、岸さんが育たれた辺りでは十四日に行われるそうだ。奈良町にある我が家は、十三日の夜におしめを下ろして、十四日はゆっくり休んでいただき、十五日の朝に小豆粥を供えて、お灯明の火で点火する。家では、注連縄や恵比須様の吉兆笹、鏡餅に敷いた裏白やゆずり葉だけを燃やすが、三重県の伊賀地方で育たれた先生の子供の頃は、とんどを焚きつける落葉や小枝を集めるのは子供の仕事で、大人達は竹で台を作って、その上に注連縄を置き、竹の足元に子供達が集めてきた焚き付けを盛って、十四日までに準備をする。十五日は、午前四時頃から子供達が家々を回って声をかけ、人々を集めて点火するのだそうだ。とんどが始まると、竹の先に網を付けたものを火の方へ突き出して、餅を焼いたり芋を焼いたりする。とんどが終わりに近づくと、各自がその火を家に持って帰って、その火で点火して小豆粥を炊いて、先刻とんどの火で焼いた餅を入れて、萱の箸で食べたといわれる。我が家の場合とは、小豆粥の登場が、とんどの先か後かで異なるが、どちらにも、小豆粥や、餅、芋が出てくるのはおもしろい。