第21回(1997年01月号掲載)

お正月の遊び 壱

◆羽子つき
 平成六年、奈良町に、「奈良市音声館」が開館した。初代館長さんは、まつぼっくり少年少女合唱団主宰の荒井敦子さんである。荒井さんは、持ち前の顔の広さから、素晴らしい講師を招いて講演会を催したり、演奏会を開いたりする一方、シルバーコーラスを組織して、わらべ唄や昔の子供の遊びを掘り起こし、老人と子供とのコミュニケーションをはかったりと、八面六臂の活躍をしておられる。
 奈良ライオネスクラブでも、「わらべ唄同好会」をつくって、月に一回音声館で教えていただくことになった。一月のお稽古日に行くと、羽子つき歌の楽譜が配られた。これは、吉野町上市で採譜されたもので、
 ひとめ ふため みやこし よめご
 いつやのむさし ななやのやくし
 ここのやでとまった
までの歌詞は奈良町の歌と同じだが、その後に「とってんけ、とってんけ」という言葉がついている。
この「とってんけ」というのは何だろうと考えていると、先生が「『ここのやでとまった』の『とまった』は、何でしょう。」と、ヒントを与えてくださる。「とまった」は、羽根が屋根にとまったという意味だから、「とってんけ」は、「取ってんけ」だと気づく。皆が、「奈良町だと、『取って』とか『取ってんか』と言うけれど、『取ってんけ』とは言わないから、この辺の羽子つき歌に『とってんけ』は付いていなかった」と口口に言った。音もほとんど同じなのだが、「やくし、ここのやでとまった」のところが、奈良町では、ソファレ、ラララドラ、ソファソと歌っていたのに対し、上市のものは、ファソレ、ソソソ、ファファ、ソレレと歌われていたようだ。私達の中には、大阪や奈良県北部、愛知県で育った人もあるが、どこも、奈良町と同じ音で、「とってんけ」は付けないということなので、奈良町風に歌うことになった。
 そこへ先生が、今、音声館で子供達が使っているという羽子板と羽根を持ってきてくださった。昔の羽子板は桐の木で作った台に押し絵を施した豪華なものだったが、今のは羽子板の形をした板に絵を貼り付けただけのものだ。ここでも、ひとしきり、「押し絵がたくさん付いた飾り羽子板は重かったけれど、あれで一度羽子をついてみたいと思った。」とか、「実際に羽子つきに使った羽子板でも、飾り羽子板ほどではないけれど、押し絵は付いていたから、力をこめてつくと、押し絵がガックリ外れて、糊でくっ付けてもらった。」、「桐の木は軽いけれど軟らかいから、羽根をつくと羽根の跡が残って、それがまた使いこんだという感じでよいものだった。」とか、話に花が咲いた。羽子も、今は黒いゴムの丸子にビニールの羽根が付いている。私達が子供の頃は、むくろじの実に鳥の羽を付けたものであったので、羽根をつくと、カーン、カーンと澄んだ良い音がした。羽根がよく回るようにと、息を吹きかけたり、羽根を指でねじったりと、それぞれ工夫を凝らしたものだ。袂の長い晴着で追羽根をつく姿は、お正月の象徴であった。
◆凧揚げ、独楽まわし
 もういくつねると お正月
 お正月には凧揚げて
 独楽をまわして遊びましょう
 早くこいこい お正月
とわらべ唄にも歌われるように、女の子の鞠つきや追羽子に対して、男の子は凧揚げや独楽まわしに熱中した。私の子供の頃は、買った凧を持っている子が多かったようだが、父や祖父の頃は、秋頃から竹を削り、それを組んで骨として、絵や字を描いた紙を張り、糸を付けて自分で凧を作ったそうだ。私達の頃でも、親に手伝ってもらって作った、和紙に龍と一文字を描いた見事な凧を持っていた子もあった。金太郎さんや義経などを描いた武者凧、奴凧等を持った子が元気に走り回っていたが、奈良町は道が狭いので、電柱に糸の切れた凧が引っ掛かって風にゆれているのも、松納めの頃の風景であった。凧の絵も戦争中になると、武者の絵は元師や大将の絵に、奴凧は兵隊凧に変わり、紙質も悪くなって破れやすくなったせいか、凧揚げの姿も少なくなった。戦後は、アメリカ製のビニールでできた三角凧や、蝶や鳥の恰好をした中国凧が、平城宮跡や木津川の河原で揚げられているのを見かけたが、自動車の増加と、子供達の生活や興味の変遷で、奈良町に凧が揚がることはなくなった。
 お正月の歌に歌われている鞠つきや独楽まわしは、特にお正月でなくても、年中どこでもやっている遊びだったが、紺がすりの対の着物に首巻をして、日当たりの良い神社の境内で独楽をまわす姿は、やはり正月ならではのものであった。私の子供の頃は、もう普段に和服を着ている子はほとんどなく、紺がすりの着物は男の子の正月用の晴着であった。女の子は袂の長い晴着を着ると鞠はつきにくいので、むしろ正月にはあまり鞠つきはしなかったように思う。
 独楽は、芯がしっかりしていないとまわらないので、自分で作ることはなかった。神社の参道などでは、おめでたいものとして、曲独楽(独楽の曲芸)を見せながら独楽を売ったりしていた。