第20回(1996年12月号掲載)

豊成山高林寺とその周辺

 井上町と花園町が交わる角に、高林寺という尼寺がある。もと元興寺塔頭の一院、また右大臣藤原豊成卿の屋敷跡とも伝えられている。藤原豊成卿と聞いて、あまりピンとこない方も、当麻寺で極楽浄土の有様を蓮糸で曼荼羅に織られた中将姫(法如尼)のお父様と言えば納得されるだろう。
 今も、ここの境内には、豊成卿の御廟があり、代々の住職によって大切に護られている。この寺が尼寺になったのは、光仁天皇の頃、中将姫に仕えて尼になった藤原魚名の娘が、中将姫の入寂後、豊成卿の廟塔をお護りしたご縁によるという。御廟の前には、見事な白牡丹の木があり、中将姫のご縁日の四月十三日には、その年の寒暖に関係なく、不思議に美しく気高い花を咲かせる。
 白牡丹 法如尼いまも在します(月史)
という、元NHK奈良支局長の小林月史先生の句は、清らかで華麗な白牡丹を見れば、千二百余年の年月を越えて法如尼(中将姫)が今もここに息づいておいでになるとの意味だが、当時の住職、珠慶尼が、清楚で美しい方だったので、この句を読んだ人の中には、法如尼と珠慶尼を頭の中で思わずダブらせた方が多かったようだ。
 本堂には、黒いお厨子に入った豊成卿と中将姫の木彫りの坐像がおまつりされている。柔和な表情の豊成卿、白い頭巾をかぶった中将法如尼の匂いたたんばかりの道心深さが感じられる像である。
 このお寺では、毎年十月に大般若経六百巻の転読法要が営まれる。大般若経は五十巻ずつ十二の箱に納められており、通常十二人のお坊さんが一箱ずつ受け持って、経の一部と願文を読み上げては、経本を扇のように繰り広げて、最後に経机をパンと叩いて次の経に移られる。爽やかな秋空に、読経の声と、パン、パンという音が響くのは、誠に荘厳で華やかな法要なのだが、この寺の大般若経には、四代にわたる尼僧の涙とひたむきな思いが込められている。
 明治時代初期は、日本のお寺にとって受難の時代であった。明治初年に発令された神仏分離令は、神社と寺院の間に争いを生じさせ、寺院や仏像を破壊する廃仏毀釈へと発展していった。今まで諸藩から与えられていた知行地は取り上げられ、壇家のない寺は、その運営に大変な苦労をされたようである。
 高林寺もご多分にもれず、経済的に困難な時であったが、七世の寿明尼は(※注)、荒廃していた山門を明治二十四年に、本堂を明治三十七年に再建されたそうだ。寿明尼は当時まだ十三才であった弟子の明珠尼(後の八世)と共に托鉢に歩いたり、また、この幼い弟子に寺を託して東京まで勧進に行ったりと、東奔西走されたそうだが、それでも大工の払いができず、台所のそばにあった深井戸を交替に覗いては、「死のう」と思われたことがあったと、珠慶尼はその著書に記しておられる。実家の稲葉家から持参した田地も全部売り払って、ついに万策尽きた時、世話をする人があって、寺宝として最後まで護ってきた大般若経六百巻を奈良の名寺に売却された。十六善神ともども大八車に積まれたお経が運ばれていくのを、師弟ともども泣きながら見送られた。しかし、このお経の代金は大部分横取りされて、思ったほどの資金にはならず、ずいぶん口惜しく悲しい思いをされたようだ。
 その話を常々聞いて育たれた珠慶尼は、幼い時から、何とか大般若経を新調して、お師匠さん達の嘆きを慰め、長い間途絶えていた転読法要を、心を込めて勤めたいという悲願をたてておられた。そして、お弟子さんの慶信尼ともども、大般若経の勧進に歩いて、由緒ある黄檗版による大般若経六百巻を新調されたのが、昭和五十年。以来、毎年、転読法要を盛大に勤めておられる。その功徳か、行方不明と思っておられた昔の大般若経六百巻が、そのまま、その名刹にあることが判明し、その翌年の転読法要からは、そちらのご好意で、十巻ずつ里帰りして、共に法要を受けられることになった。まさに奇瑞である。
 私は、子供の頃、七世寿明尼から、安政六年の元興寺の塔炎上の話を聞いたことがある。火の粉が雨のように降ってきて、この世の終わりかと思うほど恐ろしかったそうだ。火事の話を聞いて、生家の稲葉家では、まだ子供の寿明が怖がっているだろうと、早駕籠で迎えに来られた。駕籠が着いた時はもう辺りは暗くなる時間だったが、駕籠に乗る時、地面を歩いている蟻が見えたというくらい、燃え盛る炎で周囲が真っ赤だったと言っておられた。
 稲葉家は、西ノ京の名家で、代々薬師寺の信徒総代をつとめられ、高林寺の六世から八世までの住職は稲葉家出身というほど信仰のあついお家である。
 ところで、平成八年十月十六日の新聞各紙及びテレビで報道された、「世界初のトリュフ人工栽培に成功」したという近畿大学農学部助教授、稲葉和功博士は、この稲葉家当主のご長男である。トリュフというだけでは、世界三大珍味の一つといわれる香りの良い茸で一キロ二十万円ぐらいするフランス料理の材料というぐらいにしか思わないが、実はこのトリュフが、お釈迦様が涅槃に入られる前、最後に純陀の供養で召し上がったというスーカラ・マッタヴァーである(「栴檀樹茸」と漢訳されている)。「スーカラ」は猪、「マッタヴァー」は踏み砕くという意味で、野豚がその鋭い嗅覚で地中にこの茸のあるのを知ると、地面を踏み砕いて掘り出すといわれる天下の珍味である。お釈迦様にゆかりの深い栴檀樹茸を、稲葉家の長男さんが世界で初めて人工栽培に成功されたということに、不思議なご縁が感じられる。
 高林寺の近くの三棟町には、中将姫ご誕生の時、産湯に使われたと伝えられる井戸の残る誕生寺、鳴川町には、中将姫初発心の道場と伝えられる安養寺や、豊成卿と中将姫の石の宝塔のある徳融寺など、この付近には中将姫ゆかりの寺が多い。
 豊成卿の邸内を流れていたという鳴川も、今は暗渠になっているが、うちの資料センターの横を通っているし、どうも私の家の辺りは、元興寺の境内であった時代もあり、豊成卿のお屋敷の敷地であったこともあるような気がする。この鳴川にも、こんな伝説がある。その昔、元興寺の護命僧正が小塔院で読経している時、蛙がやかましく鳴きたてて読経を妨げたので神呪を唱えると、蛙がぴったり鳴きやんだ。以来、蛙の声を聞かなくなったので、「不鳴川(なかずがわ)」と呼んでいたのだが、いつの間にか鳴川と変わったという。また、川の流れが音をたてるので鳴川といったという説もある。
 花園町は、元興寺伽藍の諸仏に供える花を育てた花園があったところから、この名がついたとも、また、豊成卿邸の花園があったとも伝えられている。
※注:高林寺は千二百三十年に及ぶ歴史をもつ寺なので、初代から数えると大層な世代になるのだろうが、この寺では、十八世紀の末頃に寺院復興に活躍された寿保尼を中興初代として数えておられるので、今は十世慶信尼が住職である。