第19回(1996年11月号掲載)

雨賽山十輪院のこと

 十輪院町はお寺の多い町である。それも、甍が民家を威圧するような寺ではなく、それぞれのお寺が古い家並みによく調和して、静かな心暖まる佇まいを見せている。その町名ともなっている十輪院は、元興寺の一院として、右大臣吉備真備の長男である朝野宿彌魚養によって建てられたという。十輪院には、開基の魚養さんの墓と伝えられる魚養塚があるがこの魚養さんにもびっくりするような伝説がある。
 吉備真備が遣唐留学生として唐にいた時、彼の地の女性との間に子供ができ、迎えに来ることを約して帰国したが、当時、唐へはなかなか行くことができない。そのうち子供の母親は、子供が無事に父親の所へ行けるよう、神仏に念じて海へ流そうとしたところ、大きな魚が現れて、その子を背に乗せて父親のもとに送り届けたという。その子は魚に助けられたので魚養と名付けられた。魚養は奈良朝の名臣で、書と医学に秀でていた。弘法大師の書道の師の一人とされている。
 魚養塚は、土饅頭形の墳墓で、北側に横穴式の石室があり、奥の壁に如来坐像が彫られている。魚養塚は御影堂の奥にあってわかりにくいので、せっかく十輪院を見学に来られても見ないで帰られる方が多い。私は、この寺にある先祖の墓参りに行くだびに、本堂の佇まいだけを見て帰ろうとする人達に、「魚養塚はご覧になりましたか。池の周りをお回りになったら、美しい石仏や珍しい曼荼羅石がありますよ。」と案内役を引き受けている。
 十輪院の本尊は、日本には珍しい石仏龕のお地蔵様である。弘仁年間(八一○〜八二三)、弘法大師によって造立されたと伝えられ、「地蔵十輪経」から、十輪院という寺名がつけられた。龕とは仏像を納める厨子のことで、この石龕はすべて花崗岩の切石が用いられ、まるで、経文を絵解きするように仏像や梵字が彫刻されている。
 中央奥壁には、本尊の地蔵菩薩立像が厚肉彫りされ、その左右の壁には、十王や天女が線刻されている。十王とは、十王経に基づく、冥府で亡者を裁くという十人の王のことで、閻魔様もこのうちの一人である。初七日から、二七日、三七日と、七七日まで七回、百ケ日、一周忌、三回忌と、各王の庁を過ぎて、娑婆で犯した罪の裁判を受けて、それによって来世の生所が定まるという。この彫刻を見ながら、「だから、死後七七日の法要、百ケ日、一周忌、三回忌は、しっかりおまつりしてあげなあきまへんねんで。」という住職さんのお話を聞くと、なるほどと納得する。
 本尊の左側にはお釈迦様、右側には弥勒様が半肉彫りされている。お釈迦様は過去を守ってくださる仏様、弥勒様は未来を守ってくださる仏様で、その中間で衆生を済度してくださるのがお地蔵様である。龕には、不動明王や観世音菩薩、たくさんの五輪塔も彫られており、仁王や四天王が周囲を守っておられる。
 また、観音・勢至の種子(密教で仏・菩薩等を表示する梵字)、七星(北斗七星)、九曜(日・月・火・水・木・金・土・ラゴ・ケイト星)、十二宮、二十八宿を梵字で陰刻し、星曼荼羅風に構成されて、巧みに地蔵十王信仰が組み合わされている。かなりの大伽藍でないとお祀りできないほどの仏様を、コンパクトに龕に彫りこむという発想と構成は、見事としか言いようがない。おまけに、中央正面には引導石というのがあって、そこにお棺やお骨を置いて、諸仏のお導きを乞い願ったと言われる。以前、私の知り合いに、死産された方があって、「死んで生まれた赤ちゃんをどうして葬ったらよいのでしょう。」と相談を受けたので、住職さんにその旨を伝えると、「お寺へ連れていらっしゃい。」と言って、小さなお棺をこの引導石にのせて供養してくださった。その時初めてわかったのだが、お釈迦様とお地蔵様と弥勒菩薩様の視線が、みなそのお棺に注がれるようになっている。「さあ、極楽浄土へ連れて行ってあげますから、安心してついていらっしゃい。」とおっしゃっているような気がして、思わずひれ伏した。
 十五年ほど前、初めてインドのアジャンター石窟へ行った時、五世紀中頃から七世紀にかけて造営されたという後期窟の中に、十輪院の石龕によく似た発想の石龕仏を見つけて、びっくりした。これは、インドから直輸入とはいかないまでも、唐を通ってあまりにも早く日本に渡来した、当時の人達が目を見張ったであろう外来文化であった。
 敦煌でもアンコールワットでも言っていたが、「昔はお坊さんでも字を読めない人があったから、壁画や彫刻を見て勉強した」ということだから、この石龕仏を見て勉強された方もあったことだろう。十王の像を眺めながら、「せっかく法事をしても、十王様の裁きが済んでしまっていては、弁護士的な役には立ちませんので、昔から、『法事は日を早めてもよいけれど、遅らせてはいけない』と言いまんねんで。」と言う住職さんの言葉が、しっかりと頭に残っていて、私もそれを守っている。
 鎌倉時代の貴族の家を移築したと伝えられる優雅な本堂(国宝)は、この石龕仏を拝するための礼堂である。