第18回(1996年10月号掲載)

元興寺の伝説について

 私の家は、百数十年前の安政元年から、ここ元興寺町に居を定め、砂糖問屋を営んでいる。常々、祖父母から、「昔ここには、南都七大寺の中でも一番古い歴史をもつ、元興寺という大きなお寺があったのだけれど、長い年月の間に兵火に焼けたり崩壊してしまったりした。最後に残っていた塔も、初代がまだ若かった安政六年に焼け落ちてなくなってしまった。」と聞いて育った。奈良時代の大寺は学問寺であり、貴族の子弟の大学のようなものであったということで、そんな由緒のある地に住んでいることに大きな誇りをもっていた。
 ところが、私が十才ぐらいの頃、思いがけないことを聞いてショックを受けた。というのは、私の母は、私の赤ん坊の時に病死したので、幼い頃は父と祖父母に育てられたが、十才の時に父が再婚した。義母は淡路島から嫁してきたが、淡路島では「ガンゴウジ」とか「ガンゴゼ」とは鬼のことで、小さい時から悪戯をしていると、親から「そんなことをしているとガンゴゼが来るよ。」と言われると、今にも怖い鬼が出てくるような気がして、悪戯をやめた。泣いている子供でもガンゴウジとかガンゴゼというだけで泣きやむくらいだったので、縁談があって、住所が元興寺というので、びっくりしたと言うのだ。当時、奈良では、というより、私はそんな伝説を知らなかったので、元興寺と鬼の結び付きは、長い間、疑問として私の心の中にわだかまっていた。
 一方、私の家の北東に「極楽院」と呼ばれる無住の破れ寺があった。子供の頃から「子取り(人さらい)が出るから、極楽院の辺りへは遊びに行ったらあかんで」と言われるほど、八重葎に覆われて、怖い物見たさに塀の破れたところから覗くと、荒れ果てた、まるで狐狸妖怪の住居のようなものが立っていた。戦争の末期には、戦災で焼け出された方達が、極楽院を仮の宿にしておられるとの噂が流れていた。戦後、「無住だった寺に住職が来られて、荒れ放題だった境内を整備して建物の修復をしておられる。」と聞いたが、実際に足を運んだのは昭和も三十年代に入ってからであった。子供の頃、雑草が背丈ほどに生い茂っていた寺庭は綺麗な芝生に変わり、本堂(曼荼羅堂)も禅室も修復されて、いかにも由緒ありげなお寺に甦っていた。さらに驚いたことに、この寺は奈良時代、元興寺の僧坊で、名僧智光上人が住んでおられた所だという。その僧坊が極楽坊と呼ばれるようになるには次のような伝説がある。
 奈良時代、元興寺の僧坊に、智光と禮光という優れた学僧が住んでおられた。どちらも学術の研鑽に励んでおられたが、ある時から禮光さんはなんとなくぼんやりとして勉強をされなくなったかと思うと、間もなく亡くなられた。不思議に思っておられた智光さんが、ある夜、極楽へ行った夢を見られた。それはまさに阿弥陀経に極楽浄土の有様として説かれた壮麗なものであった。その結構づくめの世界で、智光さんは禮光さんにお会いになった。智光さんは「禮光さん、あなたは亡くなられる前、勉強もしないでぼんやりしておられたのに、どうしてこんな素晴らしい所に生まれ変わられたのですか。」と聞かれた。すると禮光さんは、「私は晩年、雑念をすべて捨て、浄土へ行けることだけを念じていたのだ。」と答えられたそうだ。目覚めた智光さんは、見てきた極楽浄土の様子を画師に描かせて浄土観想行のよすがとされた。
 智光さんはその後、ますます勉学に励まれ、元興寺三論の代表となり、浄土教研究者としても世に知られる一流の高僧となられた。この智光曼荼羅(極楽曼荼羅)がまつられることによって、極楽坊と呼ばれるようになり、中世には、極楽坊へこけら経や石塔を納めると極楽へ行けるといった庶民信仰の中心となっていった。これらの庶民信仰の遺物が修復の時に屋根裏などからたくさん出てきたのを保存研究するため、民俗資料研究所というのができ、先代の住職である泰圓さんが「貴族佛教の資料を研究している所はたくさんあるが、庶民信仰の資料をこんなにたくさん持っているのはうちだけや。」と自慢しておられたが、今は「元興寺文化財研究所」として各地の出土品の研究をしている。
 一方、出土した石仏は一時は山のように積み上げておまつりされていたが、今の泰善住職の代になってから、禅堂の南側の庭に整然と並べて浮図田と称し、地蔵盆の夕べには、八千を超える灯明皿に火を点じて供養されるのが、奈良の名物行事の一つとなっている。
 ところで、先ほどの鬼の話だが、毎年節分会に祈願して信者に配られる絵馬には、杉本健吉画伯の筆になる鬼の絵が描かれている。そして、「元興神(ガゴゼ)」の由来として次のように書かれている。「その昔、元興寺の鐘楼に悪霊の変化である鬼が出て、都の人達を随分怖がらせたことがあります。その頃、尾張の国から雷の申し子である大力の童子が入寺し、この鬼の髪の毛を剥ぎ取って退治したという有名な説話があります。この話から、邪悪な鬼を退治する雷を神格化して、八雷神とか元興神と称することになり、鬼のような姿で表現するようになりました。元興寺にまつわる鬼は、ガゴゼとかガゴシとかガンゴなどの発音で呼ばれ、日本全国に伝わっているようです。」と。道理で、健吉画伯の描かれた鬼は、愛敬があって親しみやすい。
 泰圓和尚は、「今でも親の言うことをきかない子供に『ガンゴが来るよ』と言っておとなしくさせたり、わんぱく小僧のことをガンボウと言ったりするのも、ここからきたものでしょう。ガンゼない子というのは、ガンゼを呼ぶ必要のない子という意味から出たものです。」と言って悦に入っておられた。これで義母が言っていた「子供の頃、ガンゴというと鬼のことだと思っていた。」という訳はわかったが、私達が聞いていた話は少し違う。奈良町に伝わる鬼伝説は次のようなものだ。
 昔、元興寺の鐘楼に時々鬼が現われて人々を悩ませていた。その頃元興寺には雷の申し子だといわれるほど怪力を持った僧がいて、鬼を退治しようとして争ったが、なかなか勝負がつかず、ついに夜明けになったので鬼が逃げ出した。僧はその後を追ったが、鐘楼の北東に当たる辻子の辺りで鬼の姿を見失ってしまった。今まで見えていた鬼の姿が見えなくなったので不審に思ったところから、この辻子を不審ヶ辻子と呼ぶようになり、今も町名として残っている。鬼は、不審ヶ辻子を抜けた北東に当たる鬼棲山に棲んでいたということだ。この鬼棲山には、今は奈良ホテルが立っている。奈良町の子供に「ガゴゼが来るよ」と脅すのは、あまりに身近すぎて子供を怯えさせては可哀相だという配慮から、元興寺の鬼の話だけは消えてしまっていたのかもしれない。