第17回(1996年09月号掲載)

猿沢池と興福寺の伝説

 猿沢池は興福寺の放生池である。毎年四月十七日には放生会が行われ、たくさんの魚が池に放たれる。長年にわたり放生された魚がいて、俗に「魚七分に水三分」と言われる奈良名所の一つであるが、これも伝説の多い池である。
◆采女伝説
 福島県の郡山市片平町に春姫という美しい娘が住んでいた。奈良の都から葛城王が東北巡察使として彼の地へ行った時、奈良へ連れて帰って采女として宮中に仕えさせることになった。美しい春姫は天皇に見そめられて寵を受けたが、その寵の衰えたことを嘆いて、池に身を投げたと伝えられている。池の南東には、采女が入水する時に衣服を掛けたという衣掛柳があり、北西には采女神社がある。この采女神社は自分が身を投げた池を見るのは嫌だと言って後ろを向かれたということで、道のある池側とは反対の方を向いていらっしゃる。
 ところが、采女さんの出身地の郡山市の方ではこんなふうに伝えられている。春姫は、故郷に残してきた恋人のことが忘れられず、衣を柳に掛けて身投げしたように装い、故郷まで苦労して帰り着いた。しかし、大和朝廷に遠慮した故郷の人達は彼女を温かく迎え入れなかったので、春姫は彼の地の井戸に身を投じて亡くなったということだ。いずれにしても哀れな話である。
 今もこの薄幸の美女の霊を慰めるために、毎年仲秋の名月の夜、采女神社に花扇を献じ、その後二隻の竜頭船にのせて池を二周し、最後に花扇を池に投じて供養する。
 また、この満月の日、手足を池の水に浸けると霜焼けにならないというので、子供を連れた男女が洗面器に池の水を汲んで手足を浸している姿が見られる。
◆龍伝説
 猿沢池には龍が棲んでいるという伝説もあり、芥川龍之介もこれに基づいた物語を書いている。ある人がたわむれに猿沢池の畔に「某月某日この池より龍が昇天する」と書いた立て札を立てた。それが評判となり、その日になると黒山のような人が池を取り巻き、人出を目当てとした物売りがたくさん出て、大変な騒ぎになった。いたずらの張本人も内心困ったなと思って見ていたら、一天にわかに掻き曇り、大雨とともに龍が昇天したという、嘘から出たまことのような話もあれば、いくら待っても龍が出てこないので、人々は徐々に散っていったという話もある。
◆赤い池
 池の水が時として赤く変化することがある。これはプランクトンによるものであるが、池の水が赤くなると凶事が起こるという伝承があるので、赤く変わると祈祷したり赤飯を炊いて供養したということが、室町時代中・末期頃の記録に残っているそうである。十年ほど前にも池の水が赤く変わって水を抜きかえておられたことがあったが、その時もおそらく興福寺さんがご祈祷されたのであろう。
 猿沢池の名は、インドのヴァイシャーリー国の 猴池(びこういけ)にちなんでつけられたものという。ヴァイシャーリーはインド八大佛蹟の一つで、お釈迦様が町を疫病から救われた所である。アショカ王の石柱も残っている。ここには、 猴(猿の王様)が釈尊に蜂蜜を献じたという有名な伝説がある。
◆興福寺の大御堂
 猿沢池の北東にある五十二段の石段を上がって右に少し行くと、右側に興福寺の菩提院大御堂がある。奈良町の人達はここを十三鐘と親しみをこめて呼ぶ。昔はここに梵鐘があり、朝七つ時と暮れの六つ時に時刻を報じたからだという。現在は興福寺の管長様のお住居になっているので、勝手に出入りすることはできないが、以前は団体客を案内するガイドや人力車が必ず入って説明した、奈良名所の一つであった。というのは、この庭内に「三作石子詰め」の跡といわれるものがあったからである。江戸時代頃まで、春日の神鹿を殺すとその罰として生きたまま石子詰めにされるという掟があったそうだ。江戸時代、ここが寺子屋になっていたことがあって、手習いをしていた三作がちょっと目を離した隙に鹿が手習いの草子をくわえて逃げ出した。草子をとり返そうとして三作が投げた文鎮が鹿の急所に当たって死んでしまったので、三作は「石子詰め」にされたという。子供を思う母親がその霊を弔うために墓に植えたという紅葉の木も残っていた。私は小さい時、この話を聞いて、三作が可哀相で涙が止まらなかったのを覚えている。でも、お寺でそんな残酷なことを見過ごしにされるはずはないから、これは戒めのための寓話だと思う。