第16回(1996年08月号掲載)

奈良町 小話あれこれ

 今では湯葉と言うと京都を思い出すけれど、昔は奈良町にも何軒かの湯葉屋さんがあった。私の知っている範囲では、毘沙門町に一軒あって、湯葉のあがる豆乳の表面に張った薄膜の下に串を入れて、サッと引き上げると、魔法のように湯葉が上がってきて、次々と並べて干されてゆくのを飽きずに見ていたものだ。
 その湯葉屋さんもなくなって、好物の生湯葉が手に入り難くなった祖母は「昔は元興寺にも湯葉屋さんがあって、風向きによっては家まで湯葉の甘い香りが漂ってきたくらいだから、できたての生湯葉をたっぷり食べられたけれど、このごろは干湯葉しか手に入らなくなった。」とこぼしていた。当時、幼かった私は、湯葉の持つ微妙な味わいは舌に合わず、お惣菜から湯葉が遠ざかったのをむしろ喜んでいたが、このごろ懐石料理で美味しい湯葉に出会うと、豆乳から立ちのぼっていた白い湯気を懐かしく思い出す。
 南都銀行元興寺支店があった頃、営業室と裏の土蔵の間に坪庭があった。小さいが粋な造りで、時代のついた燈籠も風情があったので、銀行の人に以前の持ち主を聞いたが知らないと言う。昔、湯葉屋だったという八尾さんの、喜寿になる小母さんの説によると、昔そこには八百善という精進料理屋さんがあって、その頃は葬式の後、引上には皆に精進料理をふるまったので繁盛していた。しかし、人々の嗜好が変わってきて、葬式の直後でも精進落としといって魚を使うようになったので、八百善さんも店をたたまれたそうだ。
 この小母さんの若い頃には伸子張りも教えてもらった。戦争も末期の頃、当時はマタニティードレスなんかなかったから、妊婦は寸法の調節の利く和服を着ていた。絹物は丸洗いができないので、全部ほどいて洗った後、端縫いをして伸子針を打ち、刷毛で布海苔をつけて布を整える。伸子針は粗く打つと布が波になるし、布目がゆがむと仕立てられない。うっかり裏から針を打つと表に糊かすがついたりする。今までやってくれていた女中さんや洗張屋さんが徴用で軍需工場へ行ってしまって、慣れない私が伸子針と悪戦苦闘しているのを、仕立物を届けに来た小母さんが見兼ねて手伝ってくれたのだ。奈良町はこうした相互扶助の町でもあった。当時、町を歩いていると、日当たりの良い路地や軒端で、姉さんかぶりをして手際良く伸子や張り板を使って張り物をしている姿をよく見かけたが、いかにもかいがいしくて良いものであった。「御伸子」と金文字で書いた漆塗りの箱に木綿用と絹用の伸子針を入れたものを嫁入り道具に持参したくらいだから、女の大切な仕事の一つだったのだろう。
 奈良町を、白いエプロン姿で櫛箱を持って忙しげに歩く小粋な人は、通いの髪結さんだった。髪結さんは五日に一度くらい回ってくるので、その頃の大人の女の人は私達があきれるほど髪を洗わず、梳くことが洗髪の代わりになっていた。たまに洗う時は、お天気のよい日の昼間に卵の白身や布海苔で丹念に洗った。髪結のお師匠さんは梳き子と呼ばれる弟子を数人抱えていた。梳き子さん達はお師匠さんより二十分くらい前に髪を結う人の家へ行って、お客さんの髪をほどき、梳き櫛でお客さんの頭を丹念に梳き上げる。お師匠さんが来ると、梳き上げた髪を魔法のように器用に束髪や丸まげに結い上げた。こうして、髪結さんも呉服屋さんも小間物屋さんも、みんな適当に回ってきてくれるので、「お家さん」とか「ご新造さん」と呼ばれる奥さん達はほとんど外へ出ることはなかった。
 十年ほど前、娘がイギリス土産にタータンチェックのケープを買ってきたことがあった。暖かそうだし、ロンドン娘が粋に着こなして街を闊歩しているのはよいものだったと言うが、ハイカラ過ぎるのではないかと着るのをためらっていた。そんな時、前記の八尾の小母さんがやって来て、「まあ、懐かしい。わてら小学校へ着て通ったようなマントや。」と叫んだ。「ほんと?」とびっくりすると、筒袖の着物の上にこんなマントを羽織って通学していたと言う。格子造りの軒の低い家が多い奈良町を、色鮮やかなマント姿の少女達が行き交う情景は、想像するだけでも絵になる。このマントは、スコットランドのインバネス地方で好んで着用された燕尾服の上に用いるのが正式という。インバネスコートが日本ではその形からトンビと呼ばれて、和服用の外套として広く愛用されていたくらいだから、マントもそれと一緒に入ってきたのだろう。明治の人達も着ていたのだからと勇を鼓して着てみると、脱ぎ着はしやすいし、肩がこらず、ドルマンスリープなど普通のコートでは無理な服の上へも楽に着られて重宝だ。しかし、何となく奇異な感じを抱かれそうで気がひけたが、このごろはレトロ感覚のファッションが盛んになったので、マントやケープも珍しくなくなった。