第110回(2004年06月号掲載
錘q授けの神 楢神社と街道
 江戸時代の奈良観光
【楢神社】
 在原神社から上街道を奈良の方に向かって進むと、天理市楢町に子授けの神として有名な楢神社がある。
 伝説によると、昔々、神護景雲元年(七六七)九月十三日、加賀の国(石川県)白山(はくさん)の嶺に女神が出現された。天つ真榊(あまつまさかき)という榊の葉に乗って、大和の国 添上郡の石川の川上にあたる楢山にお着きになると、楢の木の枝に影向されて昼となく夜となく、後光(ごこう)を放たれた。この風聞が時の帝の称徳天皇のお耳に達し、そこに神殿を造って、祀るように命じられた。これが訶梨帝母(かりていも)様だったという。訶梨帝母は鬼子母神とも呼ばれる。

鬼子母神のいわれ
 訶梨帝母は、王舎城(インドのマガダ国の首都、近くにお釈迦様が法華経を説かれたという霊鷲山がある。現在のラジギール。)の夜叉神の娘で、鬼神 槃闍迦(はんじゃか)の妻。千人(一万人とも五百人という説もある。)の子の母であるところから鬼子母と呼ばれるようになったという。鬼子母ははじめ邪悪で、他人の子を奪って食べたり、子供たちに食べさせたりしていた。仏様はこれを戒めるために、千人の子供の中から一人を隠された。鬼子母は探しまわったが、その子が見つからないので、悲嘆にくれ、仏様に行方を探してほしいとお願いに行った。仏様は「我が子を失う悲しみは、鬼子母が食べた子の親の悲しみである。」と鬼子母を諭し、戒めて子供を返された。鬼子母はこれを契機に前非を悔い改め、仏様に帰依して善神となり、子授け、安産、子育ての神、鬼子母としてあがめられるようになったということだ。鬼子母の姿は、宝衣・瓔珞(ようらく)をつけた天女形で、左手に一子を抱き、右手に吉祥果(きっしょうか ザクロのこと。)を持つ、端麗豊満な形で、表されることが多い。


 吉祥果とされる石榴(ザクロ)は多産のシンボルとして、境内には石榴の木を植え、祭典には石榴が供えられる。
 この頃は少なくなったが、私が子供の頃は、奈良には、楢良とか楢吉、奈良菊等の名前を持つおじさんやおばさんがよくおられた。これは楢神社にお願いして子供を授けて頂くと「楢」とか「奈良」「なら」の字をつける信仰によるものだそうだ。身体の弱い子は、境内で捨て子の形式をとって、改名すると丈夫に育つとも言われたようだ。
 境内には八代目市川団十郎が、弘化五年(一八四八)に奉納した実益井の井筒があり、その一面に
 ならの葉の 広き恵みの神ぞとは この実益井を くみてこそ知れ
 と彫られ、他の一面には、団十郎外六名の、一門の崇敬者の名前が刻まれている。各方面からの崇敬が篤かったようだ。

【古代からの道】
 楢神社から上街道を少し北へ進むと、奈良市の帯解地区に入る。この上街道というのは、平安時代から明治時代初期までは、奈良で最も繁盛した街道筋である。
 奈良時代には既に、大和平野を南北に通じる主な道として、山辺の道・上津道(かみつみち)・中津道(なかつみち)・下津道(しもつみち)があった。山辺の道は最も古く、奈良の東部を護るように連なる、大和高原の麓の集落を結ぶ古代からの道。大和高原に農耕が発展するにつれて。集落がつぎつぎと出来て、それらの集落を結ぶ南北の道路が、上津道、中津道、下津道であろう。これらの道が大きく発展したのは、都が平城京に移るにつけて整備され、繁盛するようになったと思われる。
 下津道は、都の中央の朱雀大路に接続するように計画されたというから、平城時代は最も栄えた道であっただろう。
【中街道】
 中津道は平城京左京の三条から、三坊・四坊辺りを南へ伸びる道で、その地区には大安寺が建立されたり、公立の東市が開かれていたから、当時はかなり賑わった土地であったと思われる。京終から神殿(こどの)、大安寺、北之庄を通って橿原に行く道で、大和平野の中央を南北に通じる重要な産業道路であった。今は国道二十四号線が中街道の役割を果たしている。
 私が奈良女高師付小(現奈良女子大付小)へ通っていた昭和初期の頃は、毎年寒に入ると、足慣らしとして、毎朝、若草山の麓廻り、又は、一重目廻り、三重目廻りをして(この小学校は、戦前にもかかわらず、自由の気風に富んでいて、先生方は何事も強制なさらず、自分で体力や気分に応じてコースを選択することが出来た。)寒明けの節分だったか立春だったかの日に仕上げとして、国道二十四号線(中街道)を真直ぐ橿原市のJR畝傍駅の前の道に突き当たった所を左折、桜井 阿部の辺りで、また左に折れて、上街道を真直ぐに歩いて奈良に帰ると、十二里コースになる。これも四里コース、六里コース等、いろいろ選べたが、いずれも、中街道を南に行って、上街道で奈良に帰って来ることになる。
奈良市の南口の肘塚辺りでは、先生方が大鍋におぜんざいを沢山炊いて待ちかまえておられて、一人一人にねぎらいながら、熱いおぜんざいをふるまってくださったものだ。私は毎年、十二里コースを歩いたが、やっと肘塚にたどり着いた時の達成感と、おぜんざいの美味しかったことが忘れられない。今でも、仕事に行き詰った時など、あの、やり遂げたという達成感を思い出しては頑張っている。それにしても、今だったら何百人もが、自分のペースにあわせて国道二十四号線を歩いたら、交通事故が心配になるのだが、あの頃はのんびりしていたなと思う。
 昭和十五年、皇紀二千六百年を記念して、中街道である二十四号線の両側に一万本の桜の木を植えて、奈良から橿原神宮まで桜のトンネルを通って行けるようにしようという計画が持ち上がり、学生や生徒、町内会の人達も勤労奉仕に加わって、沢山の桜の木を植えた。この桜が大木になって、桜のトンネルが出来たら、どんなに素晴らしいだろうと胸をときめかせたものだ。しかし、昭和十六年十二月の真珠湾攻撃から、日中戦争が第二次世界大戦に拡大していくにつれて、国内の食糧事情も悪化し、食料増産のためには「花より団子」とばかりに、田畑への日当たりが悪くなるという理由で、桜の木は枝を払われたり、遂には切り倒されてしまった。
 昭和二十年の終戦後、わずかに残っていた桜も、自動車の増加に伴なう、道路の拡張などで姿を消してしまい、桜のトンネルは遂に幻に終わってしまったが、この道は今も産業道路として大活躍している。

【上街道】
 古代、上津道と呼ばれた上街道は、奈良時代頃は、平城京に続く下津道や、大和平野の中央を貫く中津道、最も古くから人が行き交った山の辺の道に較べて、発展が遅れていたかも知れない。しかし都が京都に移って平安時代になると、平城京の主な建物は移築されたりして、旧都はさびれていったが、藤原氏の氏神・氏寺である春日大社、興福寺をはじめ、神社仏閣はそのまま奈良に残されたので、貴族達がふる里奈良を訪れる奈良詣や「源氏物語」や「枕草子」でも知られる通り、平安貴族の長谷詣の道として、上街道は脚光を浴びるようになった。
 時代は下って、戦国の世も治まり、江戸時代になると、物詣は貴族だけにとどまらず、庶民にも広がった。しかし、庶民にとって、旅は、社寺参詣か、治療のための湯治しか認められなかったので、伊勢参りや奈良詣のついでに、上方見学をするといった形式がとられたようだ。
 この間、「江戸時代の旅人が見た奈良」と題する、奈良大学の安田真紀子先生のお話を聞いたので、そのお話とレジメの一部を引用させて頂く。
(おかげ参り)
 上街道に熱狂的な賑わいを見せたものに、伊勢街道へのお蔭参りという、大量の群参があった。ある時、天からお札(神符)が降ったというのを契機として、群衆は狂ったように、我も我もと伊勢参りに向かった。宝永二年(一七○五)の四月九日〜五月二十九日の約三十日間で、伊勢神宮へのお参りが、約三六二万人あったというから、この中で、奈良の上街道を通って伊勢に行った人の数も馬鹿にならないだろう。明和八年(一七七一)の四月十一日〜五月九日の約三十日でも約二百万人あったそうだ。その時、奈良には宿屋が九十三軒あって、それぞれ相部屋で、詰めるだけ詰めて泊めたようだが、それでも宿が足りず、奈良奉行所からのお達しで、各町内の会所や民家に一町内で百名以上泊めたと伝えられるから、大混乱だったようだ。
 さらに、文政十三年(一八三○)三月一日〜六月二十日までのおかげ参りでは、村ごとに衣装を整えて踊るおかげ踊りが流行して、この約八十日間で四二七万人が伊勢参りをしたという。当時の江戸の人口が百二十万人で、世界有数の人口密度であったというから、このおかげ参りの期間中の奈良や上街道・伊勢街道の混乱ぶりは想像に難くない。
 慶應三年(一八六七)八月から翌年四月にかけておこった「ええじゃないか ええじゃないか」と唄いながら狂乱的に踊ってお参り道中をしたと伝えられる「ええじゃないか」おかげ参りの時、私の先祖は、既に上街道の現住所で商売をしていたと思うと、感慨深いものがある。
(江戸時代の奈良の観光ブーム)
 奈良のシンボルでもある東大寺の大仏様は、永禄十年(一五六七)十月に、松永久秀の兵火によって、大仏殿は焼け落ち、大仏様も大きな損傷を受けられた。
 その復興には長い年月を要し、元禄五年(一六九二)に行われた大仏開眼供養の時は、三月八日〜四月八日の一ヶ月間に、参詣者が二十万人あったそうだ。当時、奈良の人口は三万人程だったというから、大変な人数だ。他のお寺も寺宝の公開などして、奈良の町は観光ブームに沸いたようだ。宝永六年(一七○九)の大仏殿落慶法要には出店や芝居小屋も出来ておおいに賑わったと言うことだ。
 宿屋は、三輪・桜井方面から来る人達のためには上街道沿いに、大阪方面からの客には三条通りに、京都方面からの客のためには、今小路辺りに立地していた。
 私が子供の頃は、樽井町に小刀屋という旅館がまだあったが、嘉永二年に書かれた「寧府紀事」によると「小刀やにては、春秋いつも百人以上の旅人居らぬということなし。多きときは五百人も旅宿するといふ。其人々の草鞋一足も紛失せず、ことごとくに翌朝わたすという也。」とある程、繁盛していたそうだ。
 現在のタクシーに相当する駕籠は百五十丁位、名所案内をする案内人は七十人位いたという。
 天保九年(一八三八)に、土佐藩士安田相郎という方が書かれた「大和巡日記」を要約すると、
 今御門町の網引屋権兵衛という宿に泊まる。奈良は今、二月堂開帖中なので、甚だ賑やかである。
 この地でも、一番巧者(もの慣れて上手な)な手引(案内人)をやとう。
 鹿が通行人の袖たもとにすりよってくる。鹿に与える果物を売っている人があったので、それを買って、手に乗せて差し出すと、鹿は誠に人馴れた様子でそれを食べる。
 猿沢池の景色は非常に良い。池のほとりに采女宮、八重桜、衣掛柳等あり、此の辺の景色は筆舌に尽し難い。
 名物火打焼のもちを売っている店がある。鹿細工是も亦名物なり。名物の燈明墨を売る店があったので、これを買うと、店の人は、諸国の人達の詩歌連俳を書いて貰った本を持ち出してきた。予(私)にも書いてくれと言ったけれど、何れの道にも疎いからと言ってことわる。
 誠にこの地の繁盛甚だしく、賑やかである。色町などもあり、婦人の様子、大阪に負けない位である。(木辻の傾城のことを言っているらしい。)
 奈良では数人の相客があるのが普通で、室毎に数人泊まっている。大和はそうたいに夜具が非常に良い。皆、新しく、ふとんの長さは、お国(土佐)等とちがって、甚だ長くて寝心地が良い。
 今まで来たところ、宿屋も沢山あるし、馬や駕籠にも乗らないかとすすめる声は、耳のはたでブンブンいう蚊音のようで、自由自在にひろうことが出来る。
 案内人が言うには、長年案内しているけれど、誠に風流をわきまえている人は少なく、大阪辺りの遊び人が多いと言うことだ。
 又、天保六年(一八三五)に書かれた某氏の旅日記の上街道の部分を見ると、朝から二里歩いて三輪に着き、三輪大明神参詣、御拝殿ばかり、御本社は御山を神体と拝す。一里歩いて柳本、又一里で丹波市(今の天理市)に着いて、かたなやで中食(七十二文)。→二里→帯解、帯解地蔵尊へ参詣、→一里奈良。奈良では御霊神社へ参詣。元興寺の五重塔へ登り、今御門町辺りで泊まっているようだ。元興寺の五重塔は安政六年(一八五九)に焼けているが、この日記によって、この頃は登ることが出来たのだと知る。私の家の先祖は安政元年に元興寺町で店を開いているから、元興寺の塔へも登って、塔の上から自分の住んでいる町や家を眺めたことがあるのかな、と見たこともない先祖ではあるが、なんだか懐かしい感じがする。
 明治二十三年(一八九○)十二月二十七日、県内で最初の鉄道、(奈良―王寺間)が開通したのに引き続き、同二十五年には、奈良と大阪を結ぶ全線が開通、二十九年には奈良―京都間が開通すると、いち早く、明治三十年には京終―桜井間が開通し、翌年には奈良―京終間が結ばれた。
 こうして、早々と上街道に沿って桜井線の列車が走るようになったということは、京終・帯解・櫟本・丹波市(天理)・柳本・三輪・桜井といった、上街道にある町々がいかに繁盛していたかを偲ばせる。
 バスもまだ小型のうちは、この上街道を走っていたのだが、時代の進展と共に自動車の通行も増え、バスやトラックも大型化してくると、上街道の道幅は狭く、拡張には立ち退き等、多大な費用と労力を要するので、昭和四十年、山の辺の道と、上街道の中間に、奈良と桜井を結ぶ広い県道が完成して、産業道路としての役割は新道の方へ移っていった。
 しかしそれが却って、街道筋らしい、しっとりとした情緒と長い歴史を偲ばせる町並みを残すことになり、この道をこよなく愛する人も多い。もちろん、私もその一人である。