第109回（2004年05月号掲載）
千古に名を留める 典雅な風流人�
在原業平ゆかりの 在原神社
千古に名を留める 典雅な風流人�
在原業平ゆかりの 在原神社
稀代の美男で「みやび」と「愛」にひたむきに生きたとされる、在原業平が幼年期から若き日を過ごした所と伝えられ、かつては在原氏一族の氏寺である壮麗な在原寺があったというが、今は、神社の入口に「業平寺」という石の碑を残すのみで、在原公と、そのお父様の阿保親王を祀る、ささやかな神社になっている。
境内でひときわ目をひくのは、井戸枠もまだ新しい、屋形に注連（しめ）をかけた井戸である。能楽「井筒」の舞台となった「筒井筒」にしては新しいなと思って見ていると、近くで庭掃除をされていたお年寄りが「これが有名な『筒井筒』です。明日は四百名もの方が見学に来られるというので、掃除しているところです。」と、おっしゃる。「なんだか新しい感じですね。」と言うと「由緒ある在原寺跡も大部分西名阪道になってしまいましたし、せめて残っているものをと思って私が改修しました。」とのことだった。作業衣姿だったので気がつかなかったが、神主さんだったかも知れないのに、ろくに挨拶もしないで失礼したなと、あとで悔やんでいる。
【能楽 井筒】
世阿弥作の「井筒」では、長谷詣の旅の僧が、途中在原寺に立ち寄り、井戸の側で休んでいると、若い女がやって来て、井戸の水を汲んで、かたわらの荒れた古塚に、その水を手向けた。女は僧に、これが業平の墓だと教え、業平と井筒の女の恋物語を話して聞かせる。やがて、自分はその女の霊だと告げて、井筒の陰に姿を消す。夜が更けると、女は業平の形見の装束を身に付けて再び現われ、舞を舞い、井戸に業平に扮した自分の姿を映して、夫の面影を偲んだりするが、夜明けとともに消えていく。女の恋心をしみじみと描き出した名作である。
この女というのは、業平と幼馴染みで結婚した、紀有常（きのありつね）の娘であろう。幼い頃から井戸の周りで遊んでいた男の子と女の子が、二人の姿を井戸の水面に映して、幼い愛を誓いあい、やがて成人して夫婦になったという伝説から、幼馴染みが結婚にまで発展したことを、筒井筒の仲と呼ぶようになった。
【伝説 業平井戸】
乾健治氏著の「大和の伝説」には、筒井筒のことが、次のように書かれている。 昔、天理市櫟本町に在原寺がありました。そこに業平という歌人が住んでいました。ある日、河内の国からひとりの旅の女が長谷寺へ詣る途中、ここに水を飲みに寄りました。ひと目見た業平は、この女にほれこみました。
その後、業平が河内の国、高安まで、その女の家をたずねて行きました。ソッとその家を覗くと、家の中はちょうど食事中でした。女は父親の給仕をしながら、ほこりのある畳の上に落ちた飯つぶを拾って口に入れました。業平はたいへん上品な家に生まれましたので、こんな様子を見てがっかりして、家に入らないで、その場から逃げ出しました。
それを知った女は、ただちに男のうしろを追いかけました。業平はもと来た道を途中から変えて、額田部から田部に出ました。業平は魔法を使って、女が追いかけて来る道を暗がりにしました。今、そこをクラガリと言います。それから別所の方へ逃げて、手に持っていた天鉢を捨てました。そこを今もテンバチと言います。それでも女が追っかけて来るので、今度は烏帽子（えぼし）を捨てました。そこはエボシヅカと呼ばれるようになりました。
もうこれ以上走れないので、道端にあった柿の木に登って姿を隠しました。ちょうど、その木の下に井戸があって、業平の美しい姿が井戸の水に映っていました。業平の姿を見失った女は、井戸の中を覗き込んで「ああ業平さんは身投げをしたんだ。」と早合点して、自分も井戸に身を投げました。そこを業平井戸と呼んでいます。業平はうまく逃れて、在原寺へ帰ったと伝えられます。
【伝説 業平道と姿見の井戸】
また、仲川明先生は、次のように書いておられる。
有名な美男子の在原業平が、櫟本の在原に住んでいた若い時、河内の高安にいる女の人の所に通ったという業平道が、千年後の今もなお、切れ切れではあるが細々と残っています。これは、昔の大和と河内を東西に結ぶ大切な古い道だったのです。
在原から一キロ程西へ行くと、昔、聖徳太子が橘寺から法隆寺の方へ通われたという橘街道と、この業平道が交差する所があり、その交差点の東南のすみに、業平姿見の井戸という古い井戸があります。河内通いの業平は、そこで自分の姿を映したといい伝えられます。今、ここには、江戸時代の俳人 蕪村が業平道のことを詠んだ
虫鳴くや 河内通いの 小提灯
という句碑が建っています。この業平道は法隆寺の前を通り、竜田川を渡り、十三峠を越えて河内に入るのですが、法隆寺の並松（なんまつ）の北端にも、業平姿見の井戸があります。ここでも業平が姿を映して行かれたといい伝えています。
業平は、千二百年近くたった今でも、美男のことを「今業平のようだ。」と言われる程の美男の代表選手であるだけで、折々に水鏡に映して身だしなみを整えたのであろうか、または、美しい自分の姿に自己陶酔したのだろうか。
【伊勢物語に出てくる業平と紀有常の娘らしき夫婦】
幼い頃から愛を育みあった筒井筒の夫婦であったが、男は河内の高安に好きな女が出来て、夜毎に通いだす。しかし妻は、いやな顔一つしないで、いつも気持ち良く夫を送り出す。あまりにも嫉妬しないので、これは妻も浮気でもしているのではないかと疑いを持った夫は、ある日、河内へ行くふりをして、庭の植込みに隠れて様子をうかがっていた。すると、夫を見送った妻は、物思いに沈んで
風吹けば 沖つ白波 立田山 夜半にや君が ひとり越ゆらん
と、立田山を深夜に一人で越える夫の
身をひたすら案じていた。妻の真心に感じ入り、いじらしく思った夫は河内に通うことをやめた。とは言うものの河内の女のことも気になるので、夫はまた高安まで行って、そっと女の家を覗いて見た。すると、女はしゃもじを持って自ら飯をよそっていた。貴族の女には考えられない、はしたない行為に興ざめした男は、それ以来ついに女の家に足を運ばなくなった。
同じ話でも、伝説では畳の上に落ちたご飯を口に入れたとまで言わなければ、聞く人の共感を得られなかったのであろうが、自分でご飯をよそって食べているだけでも、はしたないと感じさせる程、業平は美男であっただけでなく、高貴な生まれであったのだ。
業平は第五十一代平城（へいぜい）天皇の孫であり（お父様は皇子 阿保親王）、お母様は桓武天皇の皇女 伊登内親王という、第一級の貴族である。平城天皇は、一度は病気のために、皇位を弟の嵯峨天皇に譲って上皇となられる。しかし、今度は嵯峨天皇が病気になられたため、皇位を取り戻して重祚（ちょうそ）するよう、愛人の藤原薬子やその兄の藤原仲成にそそのかされて起った「薬子の変」（くすこのへん）にかかわってしまい、お父様の阿保親王は十数年も太宰府へ流され、上皇は落髪出家された。そして、阿保親王の申請によって、その子、行平王、業平王なども、在原朝臣の姓を賜った。非常に尊い身分ではあるが、臣籍に下ることによって、皇位継承の資格を放棄し、保身を計られたのであろう。
しかも業平は、紀有常の娘と結婚したことによって、また、むつかしい立場に立たされることとなった。
第五十四代の仁明（にんみょう）天皇は、深草のみかどとも呼ばれ、文学に深いたしなみと関心を持っておられたので、側近に、豊かな才能を持つ文学者を集めておられた。業平も二十二歳の時、近衛府将監から蔵人（くろうど）に抜擢され「いとまめにじちようにて、あだなる心なかりけり。深草の帝になむつかうまつりける。」と言われる程、一生懸命、真面目に仕えたので、天皇にも気に入られ、四年目の嘉祥二年の正月には、六位の蔵人から、従五位下に昇格している。蔵人とは、天皇に近侍し、伝宣、進奏、儀式、その他、宮中の大小の雑事を掌る役で、大変な名誉職であると同時に、大変忙しい仕事であり、家柄・能力共に兼ね備えた者でなければ任命されない、出世コースでもあった。
しかし翌、嘉祥三年の三月に仁明天皇が崩御されると、第一皇子が文徳天皇として第五十五代の皇位につかれた。皇位につかれると同時に、どなたが皇太子になられるかという世継ぎの問題が起った。第一皇子である惟喬親王のお母様は紀静子、生まれたばかりの第四皇子の惟仁親王のお母様は藤原良房の娘、染殿の后であった。ここで惟喬親王と惟仁親王を巡っての勢力争いがあったが、藤原氏一門の力が強く、惟仁親王が皇太子になられた。（後の清和天皇）
こうなると、紀有常の娘と結婚して惟喬親王と従兄弟になる業平は、藤原良房一門から白眼視される、難しい立場におかれることになった。
業平の「東下り」については諸説があって、京のやんごとない育ちの業平が、実際にそんな遠くまで行ったかどうか疑問視されているようだが「身を用なきもの」として東下りでもしようかと、時の流れに抗することが出来ないジレンマのようなものがあったのではないだろうか。実際、業平の官人としての記録は、文徳帝の頃から清和帝のはじめにかけて全く残されていないが、この時期こそ、業平の歌や人間性に、深みと味わいを増した時ではないかと思われる。
三代実録（清和・陽成・光孝三天皇の時代、約三十年のことを記した史書。）には、業平のことを「体貌閑麗 放縦不拘にして、略、才学無く、善く倭歌を作る。」と記されている。
業平というのは、美男ではあるが、ずぼらで身勝手で、官人として必要な漢詩文の学識を持たず、当時、女性のたしなみであり、恋のやりとりの手段のように思われていた和歌にうつつを抜かしている。といった、きびしい評価を受けている。
業平は皇孫という由緒正しい身分でありながら、貴族間の野心や閨閥（けいばつ）にはばまれて、意のままにならない鬱積（うっせき）した思いを
思うこと 云わでぞただに 止みぬべき われにひとしき ひとしなければ
と、自らを余計者として世をすねて暮らされたのであろう。「愛」にひたむきな女性遍歴も、満たされぬ思いのはけ口だったのかも知れない。
異母弟の惟仁親王を巡る立太子争いに破れた惟喬親王は出家し、法名素覚として、比叡山麓の小野の里に隠棲された。従兄弟の業平が、ある年の正月、惟喬親王を小野の里に訪れた時、比叡山の麓なので雪が深いのを踏み分けて、やっとだどり着き、物悲しそうにしておられた親王を、昔の思い出話などしてお慰めし、夕暮れに帰る時、
忘れては 夢かとぞ思ふ 思いきや 雪ふみわけて 君を見んとは
と詠んで、泣く泣く帰ってきたと伝えられる。心ばえのやさしい人であると同時に、相通ずる哀感があったのであろう。
貞観十四年、渤海（ぼっかい、現在の中国東北地方の東部から北朝鮮にまたがってあった国）から、虎や豹、熊などの毛皮や蜂蜜を持って国使が来た時、朝廷では接待役に、異国の使者にもひけをとらない風采の立派な人物を選ばれた。業平もその接待役に入っていたそうだから、業平は美男といっても、なよなよとした女形のような惰弱（だじゃく）な美男ではなく、堂々とした美丈夫だったのだろう。
業平は貞観四年（八六二）三十八歳の時、とりなす人があって宮廷生活に復帰している。元慶元年（八七七）五十三歳で従四位上右近衛権中将となり、八七九年には蔵人頭を兼任と、順調な宮廷生活をおくったが、翌年、五十六歳で波乱に富んだ人生の幕を下ろした。
三代実録では、業平をかなり酷評しているが、古今和歌集の序では、万葉集の後、和歌の道はまったく衰えていたが、その時期に「いにしへの事をも歌をも知れる人、よむ人多からず。近き世に
その名きこえたる人」として、遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主の六人をあげているので、六歌仙と呼ばれ、高く評価されている。
六歌仙の中でも、在原業平と小野小町は好一対をなす美男美女であるが、王朝憧憬と結びついた業平には、小町のような、落魄の物語はない。
説話では「東国の荒野を旅していた業平が、風の中に歌を詠む声を聞いて、その主を探して草むらに分け入ると、どくろがあった。そこが小町の終焉の地であった。」といった、どくろ小町の話がある。
古今集では、万葉の時代には、ほとんど使用されなかった懸詞（かけことば）がよく使われている。一般によく知られている業平の
立ち別れ 因幡の山の 峯に生ふる 松とし聞かば 今帰り来む
という歌の因幡は「去なば」、松は「待つ」と懸けた懸詞である。古今集の二九五の
ちはやぶる 神代もきかず 立田川 から紅に みづくくるとは
という歌は、小倉百人一首にも選ばれて、誰にでも親しまれている。
境内には
うぐいすを 魂に眠るか 嬌柳
という芭蕉の句碑も建っている。才能豊かで、類いまれな、美男とのほまれ高い在原業平公の住居跡というだけに、文人や能楽をたしなむ人達の訪れも多いようだ。