第108回(2004年04月号掲載
清澄の里(4)
弘仁寺から
和爾を経て櫟本へ
【和爾の里】
 知恵授けの虚空蔵さんで有名な弘仁寺のすく傍に、天理市和爾(わに)の集落がある。和爾は応仁天皇の御代に来日された王仁(わに)博士由来の集落と伝えられる。日本書紀によると、応仁天皇の時に、百済王(くだらおう)が、阿直岐(あちき)という使者を遣わして良馬二頭を天皇に献上した。
 阿直岐は、よく経典を読んだので、天皇が「百済には汝に勝る博士がいるか。」と問われると「王仁という者がおります。」と答えた。そこで、人を遣わして来日を乞うと、来朝したので、太子の師として諸典籍を学ばせたという。古事記によると、王仁博士は来日の折り、「論語」十巻、「千字文」一巻を持って来たとされるところから、学問、儒教、書物の初伝と言われている。(和爾氏は王仁博士来朝以前からの豪族との説もある。)
 この辺りから櫟本一帯にかけては、四、五世紀の日本の文化を支え、五、六世紀の天皇家に多くの后妃を出して姻戚関係を結んだ和爾(和珥・和邇とも書く。)氏一族の本拠地であった。
 この豪族は、ここから山の辺を北へ、佐保・佐紀などにも勢力を伸ばし、柿本、小野、春日、大宅、栗田などの支脈も生んで祖となっていた。
 子孫の中からは小野妹子(いもこ)、小野篁(たかむら)、柿本人麻呂などの文人や学者が輩出するのは、さすがに血筋であろうか。
 和爾氏の本拠地に、嵯峨天皇の命により、小野篁が弘仁五年に建立した、知恵の仏様 虚空蔵菩薩を祀る弘仁寺があるというのも、もっともなご縁であろうか。

【古墳公園と白川ダム】
 弘仁寺から櫟本に向かって新しい立派な道が出来ているので、走っていると、右へ行くと古墳公園と白川ダムという標識が出ていたので、曲がってみる。
 少し行くと、白川ダムへ登る道角に、可愛い古墳丘が三つ程あり、休憩用の四阿(あずまや)を備えた瀟洒な古墳公園がある。韓国などでよく見かける古墳群を、こぢんまりと、まとめ上げた感じだ。
 冴え返る山路にまろき古墳群 正子

 案内板には「和爾小倉谷古墳群。古墳時代後期に住んでいた豪族によって作られたと思われる。一九九一年、白川ダム建設にともない、奈良県立橿原考古学研究所の発掘調査があり、三基の古墳から横穴式石室が見つかりました。一号墳は、六世紀前半の円墳で丘陵上に造られています。二、三号墳は七世紀と思われ、丘陵のかたちや、立地石室の石材の大きさや組み方に、時代による移り変わりを見ることができます。
 周辺のおもな遺跡には、平安時代の白川火葬墓群(消滅)、奈良時代の銀製墓誌を出土した僧 道薬墓(墓誌は表に 佐井寺僧 道薬師 族姓大楢君素止奈之孫 裏には和銅七年歳次甲寅 二月廿六日命過と、縦十三・七五センチ、横二・二センチの短冊形の銀板に刻まれていたという。)、岩屋大塚古墳(前方後円墳)、二十数基の円墳がある十三塚古墳群があります。」と記されている。
 お椀を伏せたような、可愛い円墳の東側から見ると、しっかりとした石組の石室のある横穴があって、一五○○年も昔、こんな立派な墳墓に葬られた人は、多くの后妃が輩出した和爾家の統領か、違うとしてもかなりの豪族であっただろうから、その葬祭の時は、この辺り、野辺送りの人で埋めつくされたであろう。古代の幻を見る思いがする。
 古墳公園の前の道を少し登ると、満々と水をたたえた白川ダムがある。ダムとしては小ぢんまりとしているが、中程まで橋がかかっていて、浮見堂のようなもの(観測や監視用のものだろうか。)があって、優雅な感じのするダムである。

【櫟本という地名の伝説】
 さらに進むと櫟本町に入る。櫟本という地名については、次のような伝説がある。
 昔、今の櫟本の辺りに檪(いちい)の大木があった。(“いちい”と呼ばれている樹木には、笏の材料となるので一位とも書かれるイチイ科の“いちい”とブナ科の“いちいがし”があった。万葉集には“いちいがし”を檪と書かれているので、この場合“いちいがし”と思われる。)この木の上に天狗が住んでいて、通る人に「いっちんの実」(いちいがしの実の方言)を投げつけたり、近所の家畜や農作物をとったり、あげくの果は、毎年一人づつ娘を人身御供に出せと言い出して、人々を苦しめていた。
 ある時、覚弘坊(かっこうぼう)という偉いお坊さんが中国から帰ってきて、人々をこの苦しみから救おうと、檪の木の下に行って「もしもし天狗さん、中国から良い物を持って帰って来たよ。」と呼びかけ、衣から眼鏡を取り出して「これで見ると、大和国中(くんなか)すっから見通せるのだ。」と誘って、その眼鏡と檪の木を交換することにした。天狗は米谷山の方へ去って行き、坊さんは人々を集めて檪の木を切り倒した。木は西を向いて倒れ、檪の根元の周辺を櫟本村、横のところを横田村、枝を積んだところが千束村と呼ばれるようになったということだ。
【和爾下神社】
 奈良と天理を結ぶ国道169号線と、県道福住・横田線との交差点の北側に立派な鳥居があって、和爾下神社という碑が建っているので、私はうかつにも、鳥居の内に見える祠が和爾下神社だろうと思っていた。ところが、この項を書くにあたってお参りに行くと、その祠はお稲荷さんらしく、赤い鳥居がいくつも建っている奥の社前には、お狐さんが坐っている。もっと奥かと思って車で走ると、住宅地に出たり、天理教の大教会があったりする。迷っているうちに日がくれて暗くなってきたので、その日はあきらめて帰った。
 翌日は鳥居のあたりから歩いた。すると、和爾下児童公園と駐車場の間に由緒あり気な細い古道があって、和爾下神社参道と書かれている。なる程、車で走っていたら気づかなかったのだと思いながら、左に折れて歩いていくと、児童公園を過ぎたあたりから緑が深くなってきて、大きな看板が立っている。神社の由緒書かと思ったら、「影媛あはれ」という見出しで、次の歌が書かれている。

 石の上 布留を過ぎて 薦枕
 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 
 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保過ぎ
 玉笥には 飯さへ盛り
 玉もひに水さへ盛り 
 泣き沽ち行くも 影媛あはれ

 これは、万葉集以前の、日本書紀の武烈紀にある影媛の悲恋の歌。影媛は物部大連 麁鹿火(もののべのおおむらじ あらかび)の娘で、大臣 平群真鳥(へぐりのまとり)の息子 鮪臣(しびのおみ)と愛し合っていた。そんな折、媛は皇子の小泊瀬稚鷦鷯(おはつせわかさざき  後の武烈天皇)の求婚を受けた。色良い返事をしない媛の態度にいら立っていた皇子は、海石榴市(つばいち)の歌垣で、影媛と鮪が既に恋仲であることを悟った。
 当時、強い権力を持っていた真鳥父子と皇子は、政治上の対立と恋の恨みが重なって、大伴連金村に命じて、鮪を乃楽山(ならやま)で攻め殺させてしまう。そのことを知った影媛は鮪の後を追って乃楽山へ行き、恋人が殺されてしまったことを見届けて、泣きながら詠んだのがこの歌だという。
 大意は「石上の布留を過ぎ、高橋(今の杏町の辺り)を過ぎ、大宅(白毫寺の辺り)を過ぎ、春日(奈良公園の辺り)を過ぎ、小佐保(佐保川町の辺り)を過ぎて、亡くなった人に供えるために美しい器にご飯まで盛り、美しい椀に水まで盛って、泣きぬれて行く影媛は、本当に哀れだ。」といった意味だろうか。この参道の一部は、影媛があふれる涙を拭いもせず、ひたすらに乃楽山に向かって走ったであろう風情を偲ばせるものがある。
 和爾下神社の本殿へは、この径を右に折れて、かなり急な石段を登る。長い石段とはいえ、それ程、登った訳でもないのに、まるで深山のような森厳な気の漂う中に、どっしりとした桃山時代建築の重文の本殿が建っている。
 前方後円墳を神域とした、日本でも数の少ない神社だそうだ。
 和爾氏の氏神様だったのだろうから、御祭神は、和爾氏の祖とされる第五代孝昭天皇の第一皇子 天足彦国押人命(あめのたらしひこくにおしひとのみこと)かと思ったら、案内板には御祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)となっている。稲田姫は素戔嗚命の奥さんで、大己貴命は素盞鳴命の子とも六世の孫ともいわれている。いずれも天孫降臨まで、日本の国の治め、護ってくださった国つ神で、大己貴命は大国主の命とも呼ばれて親しまれている神様である。天皇家のご先祖といわれる天照大神と素戔嗚命は姉弟でいらっしゃるから、和爾氏の先祖と言えないことはないが、天つ神と国つ神である。一名、治道(はるみち)神社とも呼ばれ、この辺りの氏神となっている。と書かれてあった。和爾氏が権勢を誇った時代も遠くなりにけりの心境だ。

【柿本人麻呂ゆかりの地】
 神社の山を降りていくと、児童公園で、男の人が二人話をしておられたので、昨日、探しても見当たらなかった「柿本寺跡はどちらでしょうか。」と尋ねた。すると、その人は「ここですよ。私は柿本人麻呂の顕彰会の代表をしている者ですが、ここに萬葉歌聖 柿本人麻呂の石像を建てて、来る四月十日、天理市長に除幕して頂くことになっているので、その打ち合わせをしているところです。」とおっしゃった。そして、小さな木立の中にある「歌塚」に案内してくださった。この歌塚は、人麻呂公の遺言で、遺髪を生まれ故郷の、この地に埋めたもので、柿本寺に唯一現存する公のお墓だということだ。
 現在、建っている石碑は、亨保十七(一七三二)に建立されたもので、「歌塚」の二文字は、後西天皇の皇女 宝鏡尼の宮のご親筆で、碑の裏の文は、黄檗宗の長老 百拙和尚の筆になるものだそうだ。
 万葉集に最も多くの秀歌を残した(人麻呂と明記された長歌十六首、短歌六十一首のほか「柿本人麻呂歌集」の歌とされるものが、長短含めて三七○首におよぶ)華々しい才能を持ちながら、異郷ではかなく逝った歌聖の人生を象徴するかのように、歌塚には春の雪が舞い降りていた。
 人麻呂の歌塚に降る牡丹雪 正子

 この歌塚を案内してくださった方は、近くにある佛現山 極楽寺の住職の藤谷智守さんという方で、「この児童公園は、人麻呂公の遺徳を偲んで、北沢善之氏が天理市長をしておられる時、造られたものだ。」とおっしゃるので「私の家は北沢さんの遠縁になります。」と言うと、「私は北沢さんのお嬢さんと小学校同級でした。不思議なご縁ですなあ。うちの寺には柿本寺ゆかりのものを保管していますから、どうぞ寄ってください。」とおっしゃるので、思いかけず極楽寺へお邪魔させて頂いた。
 極楽寺は、その名の示す通り浄土宗のお寺だが、ご本尊の阿弥陀三尊の横に、明治の排仏毀釈の折に、先住が預かられたという柿本寺(南北朝時代に元の柿本寺が焼けてしまったから、明治維新頃までには再建されていたのだろうか。)にあったという、小ぶりながら力強い四天王などが祀られている。別室には柿本寺や在原寺の版画や櫟本十景(柿本寺では、中世の頃から、この地方の歌人達が、人麻呂像を掲げて歌会を催されたようである。近江八景になぞらえて、短歌に詠まれた十景を選ばれたようだ。)の版画等が展示されている。
 住職は「昔は、櫟本は上街道では、奈良につぐ賑やかに栄えた町でしたから、その繁栄をなんとか取り戻したいと思っています。」と言っておられた。
 柿本人麻呂といえば、誰でもすぐ
  東の野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ
 という阿騎野(大宇陀町)での歌を思い浮かべる程有名で、今でも旧暦十一月十七日には、阿騎野にかぎろいを見ようとする人が集まる位である。私も数年前、今の暦だと十二月の末頃、凍りつきそうな程寒くて、まだ真っ暗な午前四時頃家を出て、この光景を見ようと、かぎろいの丘へ行ったが、想像を絶するような人出であった。かぎろいの丘は人で埋まりそうな状態で、人麻呂人気に驚いたことがある。それ程、有名な歌人であるのにかかわらず、辞書をひいても、『万葉の歌人、生役年、経歴とも不詳ながら、その主な作品は、持続三年〜文武四年(六八九〜七〇〇)の間に作られており、皇子、皇女の死に際しての挽歌や、天皇の行幸に供奉しての作が多いところから、歌を以て宮廷に仕えた宮廷詩人であったと考えられる。』とあって、その作品に関しては沢山書かれているのに、履歴はつまぴらかでないので、極楽寺で戴いた「柿本人麻呂公略縁起」から要点を拾わせていただく。
 人麻呂公は天智天皇時代に生を受け、朱鳥元年(六八六)より朝廷に仕官し、天武・持続・文武の三天皇に仕えられた。人麻呂公は六位下の官吏ながら、文学、詩歌は天下随一なので、持続天皇より目をかけられていた。
 それをねたまれて、人麻呂は播磨国 明石へ左遷させられたが、明石で人麻呂公の名声は益々あがった。又々、それをねたまれて、石見(いわみ)の国 高津の国司として還された。神亀元年(七二四)三月十八日、高津の鴨山で死亡された。行年四十四、五歳と言われている。この時の辞世の歌と思われる次の歌が万葉集巻二にある。
 鴨山の岩根しまける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ
 人麻呂公の遺命によって遺髪を生まれ故郷の櫟本へ埋めたのが、歌塚である。
人麻呂公死後、亨保八年(今より二七九年前)に一千年忌を奉修されて正一位を贈られた。(この気運にのって、先に記した碑が立てられたのであろう。)
 柿本寺は山の辺の道、櫟本周辺に柿本氏が建立した伽藍であったが、建武元年頃(一三三五)南北朝時代、第九六代後醍醐天皇は足利尊氏の軍勢に追われて、大和国吉野山に逃げられた。それを追った足利軍は、寺院を次々と焼いて進軍した。柿本寺もこの戦火にあったのが元の柿本寺である。
 『かかる名刹たりとはいえども、星霜一千三百年を経ぬれば、堂塔の有りし所、いま礎石さへ定かならず。すべて田畝となりて、伝記口碑ばかりに伝ふばかり也。』とある。
 まったく、降りしきる春の雪のように、華やかにはかない歌聖の生涯ではあるが、その歌は今も鮮やかに光彩を放っている。