第107回(2004年03月号掲載
清澄の里(3)
菩提山から高樋を
経て弘仁寺へ
 正暦寺から、菩提山川に沿って参道を南に下って行くと、左手の谷沿いに、毎年、薬師寺の花会式の造花を作り伝えてこられた橋本家がある。
 花会式とは、嘉承二年(一一○七)、堀河天皇が皇后の病気快癒を薬師寺の薬師如来に祈願された。全快された皇后が、感謝の心をこめて、采女達と共に造花を作って献花されたのが始まりと伝えられる。それ以来、薬師悔過の修二会花会式として、毎年、三月三十日から四月五日まで、薬師三尊を色とりどりの花で荘厳して勤修されている。
 薬草で染めて作られた、梅、桃、桜、藤、椿、百合、杜若、山吹、牡丹、菊の十種の造花を十二の瓶に活けて供えられるは、誠に見事で、華やかな法要である。この花々は、明治時代に薬師寺から帰俗した、この菩提山町の橋本家と、寺侍の家柄であった西の京の増田家で作られているとは聞いていたが、こんな静かな山ぶところにある、一見普通の農家のように見える家で、日本最古の伝統を受け継ぐ、あの華やかな造花が作り続けられているというのは驚きだ。
 子供の頃、花会式にお詣りしていたお年寄りから「昔は、病気になっても貧しい家ではなかなかお医者さんにかかれなかったので、お薬師さんの造花は薬草で染めてあるからと、花会式で頂いてきた花を煎じて飲んだものですよ。」と聞いたことがある。その時は、どの色の花が何の病気に効くかわかっていたのかなと不審に思ったが、お薬師様のご慈悲にすがろうとの思いだったのだろう。
【高樋町】
 柳茶屋の三叉路の突き当たりには、正暦寺と弘仁寺への標識が立っていて、可愛らしい時計台がある。なんだか明治の文明開化か大正ロマンという言葉を思い浮かべるような素朴な時計台だが、これが出来た時は、村の人達が寄り集まって、時計台のある村になったと胸を張っただろうと思うと微笑ましい。
 弘仁寺には、有名な虚空蔵菩薩をお祀りしているので、今はその周辺を虚空蔵町と呼んでいるが、昔は「高樋の虚空蔵さん」と呼んでいた。椿尾や米谷など大和高原の集落に入る道路の入口に位置する古くから発展した土地で、用水を高い所から樋で引いていたので、高樋という地名になったのだろうと言われている。
 高樋には、昭和三十八年(一九六二)、橋本多佳子先生のあとを受けて「七曜」の主宰となり、平成三年(一九九一)橋本美代子先生に引き継ぐまで二十八年間、約三○○号分の七曜出版の主宰をされた有名な俳人 堀内薫先生が住んでおられた。
 堀内薫先生は、昭和四年(一九二九)京都帝国大学国文科を卒業して、兵庫県立洲本中学に赴任され、昭和十五年まで国語の先生をされていた。私の夫は昭和九年に洲本中学に入学したので、五年間、先生の教えを受けたという。当時、先生は頭を丸刈りにしておられ、若き日の沢庵禅師の面影を偲ばせる風格があったので、ヤンチャな中学生達は「坊んさん」というニックネームを進呈したそうだ。夫は昭和十四年には関西学院大学に入学して、卒業後は奈良に来たので、先生が他の学校に変わられたのも知らなかった。昭和三十二年頃、主人が家の表に立っていると、南の方から自転車に乗って来る人が、どうもよく似ているので「堀内先生と違いますか。」と声をかけると、先生もジッと顔を見て「ヤァ、柳沢君(主人の旧姓)こんな所で何をしてるねん。」と言われたそうだ。先生はその頃、県立奈良高校に勤めておられたようだ。久しぶりの話がはずんで、今は生まれ故郷の高樋町に住んでおられるというので、私も一緒にお宅に訪ねて行ったことがある。玄関には大きな籐の乳母車が置かれていて、六〜七才位のお嬢ちゃんと三〜四才位の坊ちゃんがおられた。それから四〜五年して、先生は東大寺学園に変わられたので、家の前を通られなくなり、長い間ご無沙汰していた。
 それが、平成八年の春、突然家へいらっしゃったそうだ。私は留守をしていたので、お会い出来なかったが、話を聞いてびっくりした。先生のお孫さんが、学校を卒業してマスオ商事KKへ入社されたというので「それやったら教え子の増尾君とこやないか。」と懐かしくなって訪ねて来られたということだ。あの、小学校へ入ったばかりのようだったお嬢ちゃんが、中川さんという校長先生の奥さんになっておられて、そのお子さんだということだ。苗字が違うので分からなかったのと、先生の家をお訪ねした時の光景が、まだ鮮やかに記憶に残っているのに、それ程の年月が経ったのかという思いと、不思議なご縁に驚くほかなかった。
 それにしても留守をしていてお会い出来なかったのが残念だったが、お孫さんもうちの会社におられることだし、そのうちお会い出来るだろうと思っていたのに、その年の八月十一日、先生は九十三才でお亡くなりになった。お訪ねすればよかったのにと、かえすがえすも残念であった。
 正暦寺には
  太陽の火の粉となって鳥渡る
という堀内薫先生の句碑が建っている。
【虚空蔵山 弘仁寺】
 弘仁五年(八一四)に嵯峨天皇の命により、小野篁(おのたかむら)が建立したので、弘仁という年号を寺名にしたと伝えられる。また一説には、大同二年(八○七)この地に明星が落ちたので、弘法大師が霊地として寺を建てられたとも伝えられる。
 ご本尊は虚空蔵菩薩。虚空蔵菩薩は、虚空(天空)を蔵とすれば、何でも入るように、知恵や功徳が広大無辺であるとして、子供が十三才になると、四月十三日に、十三参りといって、知恵を授かりに虚空蔵様にお参りする習慣がある。
 私や子供達は、京都の嵯峨の虚空蔵さん(法輪寺)へ十三参りに行ったが、明治の中頃生まれの父の頃は、当時、高樋の虚空蔵さんと呼ばれていた弘仁寺にお参りしたという。祖父につれられて、朝早くから弁当を持って、草鞋がけで歩いてお参りしたそうだ。天理市との境界近くにあるお寺だから、子供にとっては、かなりハードだっただろう。
 戦国時代、松永久秀の兵火にかかって伽藍のほとんどが焼失して、本堂、明星堂などは江戸時代の寛永六年(一六二九)の再建である。本堂には本尊 虚空蔵菩薩を始め、四天王、地蔵菩薩などが安置され、明星堂には平安時代初期作の欅の一木造りの明星菩薩立像が安置されているという。
 若き日の弘法大師は、室戸岬の突端にある御厨人窟(みくろど)という洞窟にこもって修業されている時、明星の来影を感得して「求聞持の法」を成就されたと伝えられる。(この洞窟の手前には、明星来影寺があって、像高十六メートルの青年大師像が奉安されている。大師十九才のお姿だという。)
 こうしたことから、明星信仰が高まり、厄除けの明星菩薩として信仰を集めているそうである。そうであると、自信無さそうに書くのは、私がこの寺を訪れるのは、紅葉の正暦寺を訪ねて、その足でここまで来るのだが、いつも諸堂は閉まっていて、境内には人影一つ無いことが多く、お坊様のお姿も見当たらない。静寂の気が漂う寺内で、庫裡(くり)の戸を叩いて拝観をお願いするのもはばかられて、私は残念ながら、この寺の仏様方は、外から拝むだけで拝観したことがない。
 しかし、境内の公孫樹(いちょう)の大木の黄葉は見事で、青空と黄葉も綺麗だし、黄色い絨緞を敷いたような落ち葉も美しいので、時々訪れる。境内に柿の皮が沢山干されていて、「柿の皮を干したのを粉にして、沢庵を漬ける時、糠に交ぜると美味しいよ。」と言っていた祖母の言葉を思い出したこともある。この間、この項の取材に行った時は、回廊にござを敷いて、切り干し大根が干されていた。微笑ましい親近感を覚えるお寺である。
 回廊に 切り干し広げ 山の寺
【「十三参り」とは】
 十三才といっても、満年齢ではなく、数え年の十三才は、初めてまわってくる自身の生まれ年の干支に当り、厄年でもある。そこで、子供が十三になると、厄落とし、開運、知恵授けを願って、虚空蔵様にお参りする行事が盛んになった。昔は、十三参りには、初めて本裁の着物を着るので、成人儀礼の一種であったとも言われる。
※本裁というのは、和服は、一ッ身、三ッ身、四ッ身と、子供の成長に合わせて着物も大きくなっていき、大人になると本身(本裁)を着るようになる。
 虚空蔵菩薩は十三仏のうち、最後の十三番目の仏様である。十三仏というのは、人の死後、初七日から三十三回忌までの追善供養に当たられる仏様方で不動明王(初七日)、釈迦如来(二七日/ふたなぬか)、文殊菩薩(三七日/みなぬか)、普賢菩薩(四七日/よなぬか)、地蔵菩薩(五七日/ごなぬか)、弥勒菩薩(六七日/むなぬか)、薬師如来(七七日)、観音菩薩(百ヶ日)、勢至菩薩(一周忌)、阿弥陀如来(三周忌)、阿d如来(あしゅくにょらい/七回忌)、大日如来(十三回忌)、虚空蔵菩薩(三十三回忌)に、死者を善導してくださるという。
 地蔵菩薩が大地のように、すべてのものを育てはぐくみ、汚い水でも吸い込んで浄化してくださる慈悲の仏様であるように、虚空蔵菩薩は宇宙のように広大無辺の功徳を持たれ、この仏を拝めばね虚空に何でも入るように、諸々の知恵を吸収し、記憶力も抜群となるとされていた。弘法大師も遣唐僧として唐へ渡る前に、虚空蔵菩薩求聞持法を修められたので、素晴らしい修業成果を持ち帰ることが出来たと伝えられる。
 子供達の親も、賢く丈夫に育つことを祈って、十三参りに連れて参ったのであろう。
【絵馬と算額】
 この間、徳融寺の大人の寺子屋で、国立歴史民俗博物館教授の岩井宏實先生から、「絵馬の歴史と民俗」というお話を聞いた。[註]徳融寺は、明治六年に、今の済美小学校の前身である魁化舎(かいかしゃ)が開かれていたことから、これを記念して一年位前から、奇数月の第一土曜日(時には第二土曜日のこともある。)に「大人の寺子屋」という講座が開かれている。
 古代においては、神霊は乗馬姿で人間界に降臨されるものと信じ、馬というものをきわめて神聖視していた。祭の神幸に神輿(みこし)が登場するまでは、神霊の依代(よりしろ)である鏡をつけた榊を馬の背に立てたものが普通であった。(春日曼陀羅にも、そうしたものが見られる。)こうしたことから、神事・祈願に際して、馬を神霊に捧げることが、崇神天皇の頃から行われていたようである。天平時代頃からは、降雨祈願には黒馬、止雨祈願には白馬が献じられたようだ。黒馬の黒の色は黒雲がたなびき雨をもたらす呪術の色、白色はその反対に、白日の太陽を象徴するものであった。後世、絵馬を奉納するのに、白馬と黒馬の図を一対にする風習が生まれたのは、天候が順調で、晴雨のバランスがうまくとれるように祈願したものであろう。
 生きた馬の代わりに、土や木で作った馬形を献上したり、生馬や馬形も作ることが出来ない人達は、馬の絵を献上したことから絵馬が始まった。
 室町時代中期頃になると、画題も馬以外のものが多くあらわれ、形も多種多様になって、大型の絵馬も出来て狩野元信等著名な画家も筆を揮うようになった。桃山時代頃になると、益々豪華絢爛な大型絵馬が奉納されるようになって、南都御祭の図、薪能の図、朱印船の図等、数々の名画絵馬が誕生した。
 一方、江戸時代になると、庶民の間に民間信仰的な、小絵馬を奉納することが盛んになった。絵柄はおまじない的で、目の悪い人は「め」の字や眼球の図の絵馬を納めたり、手の病が治るように手の絵を描いて奉納したりするようになった。岩井先生は、これ等の絵をスライドで見せながら、「大絵馬はたてまえ、小絵馬は本音ということが出来ますね。」とおっしゃった。
 大絵馬の図柄は、社会の情勢や風俗をよく反映している。例えば、北前船の図は北前廻船の活躍と、そのもたらす繁栄ぶり。能・狂言・歌舞伎・役者絵などは、諸芸能が民間に広く普及していたことを示し、歌仙の画や算額なども、和歌や和算等、学芸の発達と民間に普及していたことを示すものであるとのことであった。
 弘仁寺は、知恵授けの寺と言われるだけあって、本堂の軒下には、他の絵馬に交じって「算額」が二面奉納されている。算額というのは、江戸初期頃から、和算学者が自分の学力を誇示するため、問題を出し、条件や計算・解答等を記した額を競って社寺に奉納したものだという。
 弘仁寺の算額はかなり痛んでいる上、むつかしいので、喜多野徳俊先生が書かれた「奈良閑話」から引用させていただく。二面の算額のうち、古い方は文政十年(一八一八)四月に奉納されたもの。横一メートル強、縦八十センチ強の欅の六分板で作られたもので、額枠には蓮弁が飾られている。解説によれば、当時使用された算盤に算木を配した図が額いっぱいに描かれていて、三八四億四三三五万九三七五という大きな数字の九乗根を求める和算が示され、答は十五となっている。師範は北柳生村(現在天理市南六条町)の奥田政八で、その門人社中二十六名の名が住所と共に下の方に記されている。その分布は北柳生村十五名、南柳生村六名、横田新庄村四名、新庄村一名となっている。
 もう一つの額は、安政五年(一八五八)三月に石田算楽軒という寿齢七十八才の方が奉納されたもので、算楽軒の極彩色の肖像画も描かれているのに、その方の住所は書かれていないようだ。当時、住所など書かなくても、誰でも知っていると自負される位、有名な方だったのだろう。この額にも天文学的な数字の立方体の問題と解答がなされているようだ。江戸時代というと、鎖国政策で人間も盆栽の植木のように小ぢんまりとまとまって考えることも細かいのかと思っていたら、雄大な数を考えていたものだなと思う。
 二番目の額の門弟社中の住所も、奈良清水村、額田部、南永井、京終、上三郷町、東九条村、和爾村、神殿村等、この近辺の町村が多い。知恵を授けて頂きに十三才になった子供を連れてお参りされる虚空蔵菩薩をお祀りする本堂の正面に算額を掲げることは、和算塾の最も効果的なPRの場であったと思われる。門下生といえども、十三才の子供を教えるには十分な実力者で、それぞれ塾を持っておられただろうから、たちまち果報を得られたであろう。さすがに頭の良い人達だ。