第106回(2004年02月号掲載
清澄の里(2)
紅葉の名所 菩提山 正暦寺
 江戸時代、奈良の町は勿論、大和一国の民政、社寺のことを掌握していた権力者 奈良奉行も、毎年正月には早々に円照寺を訪れ、奥御殿の対面の間で、門跡様に拝謁して、年始のご挨拶を申し上げたと伝えられる程、格式が高い円照寺の長い参道の西を通る山の辺の道を一キロばかり南へ下り、東へ折れて二キロ程、進み、さらに左折れして山添の道を北に行くと、菩提山 正暦寺(ぼだいせん しょうりゃくじ)の門前に出る。
 菩提山という地名は、天平八年(七三六)、遣唐使の多治比広成の要請により来日したインド僧、婆羅門僧正菩提僊那(ばらもんそうじょう ぼだいせんな)によって、インドの聖地に因んで名付けられた地名の一つだという。釈迦が菩提樹の下で悟りを開かれた故事に因むというから、ブッタガヤのことだろう。菩提僊那は、中国五台山の文殊菩薩の霊験を開いて南インドから唐へ来ていたところ、遣唐使に会って来日し、天平勝宝四年(七五二)四月九日、東大寺大仏の開眼法要の開眼導師を務められた方である。
 正暦寺への参道の左側は、往時を偲ばす苔むした石垣、右手からはせせらぎの音が聞こえ、参道に植えられた数百本の楓は、春には燃え立つような若葉を、夏には緑の日差しを、秋にはまさに錦繍のトンネルを歩く風情をかもしだす。
【正暦寺の生誕と歴史】
 正暦寺は、その名の示す通り、正暦三年(九九二)一条天皇の勅願寺として、勅命を受けた関白藤原兼家の子、兼俊僧正によって創建されたと伝えられる。藤原兼家は権勢を誇った藤原道長の父で、蜻蛉日記(かげろうにっき)の作者の夫である。蜻蛉日記の作者は「藤原道綱の母」と記されているだけだが、天暦八年(九五四)から天延二年(九七四)まで二十一年間の、兼家の妻としての悲喜哀歓を記録したもので、女流日記文学の代表的名作とされている。小倉百人一首に「歎きつつ ひとり寝る夜の明くる間は、いかに久しきものとかは知る」という彼女の歌がある位だから、華やかに見える平安貴族の女性達の内面は、悩みの多いものであったのであろう。ちなみに、一条天皇のご生母 東三条院(詮子)は兼家の息女である。
 創建当時は、渓流をはさんで堂塔・伽藍を中心に八六坊が建ち並び勅願寺としての偉容を誇っていたそうだが、治承四年(一一八○)の平重衡(しげひら)の南都焼打の際、その類焼を受けて、全山焼け落ち、寺領は没収されて、一時は廃虚と化した。しかし、健保六年(一二一八)には関白藤原忠通の子息で、興福寺大乗院門跡 信円僧正が、法相宗の学問所として再興し、昔にまさる隆盛をきわめた。
 建暦年間(一二一一〜三)、法然上人の弟子の蓮光法師が、この地に安養院とその別院 迎接院を建立して浄土信仰を伝えたこともあった。
 その後、中世から近世にかけては、松永久秀の乱や、度々の焼討や兵火にあい、さらに明治維新の排仏によって一層の打撃を受け、歴史的な塔頭としては、福寿院客殿を残すのみとなった。
【正暦寺の文化財】
 この稿を書くにあたって訪れた十二月二十二日は、図らずも秘仏御開扉の日であったので、ゆっくりおがませて頂くことが出来た。仏様のお導きかと感謝している。
▼福寿院客殿(国指定重要文化財)
 福寿院は度重なる戦禍で、あまたの塔頭が焼失した折にも難を逃れた一院で、現在は本坊になっている。
 客殿は、延宝九年(一六八一)に建てられて、元禄十五年(一七○一)に一部改造されている。建物は南北棟の方丈(客殿)と、その東側に接続する庫裡で、L字型に建てられている。
 明治以来の衰退で、荒れ果てていたようだが、昭和五十二年一月より、二十ヶ月かかって解体修理して、原形に復元された。
 柿葺(こけらぶき)入り母屋造りの、上壇の間を持つ数寄屋風客殿建築である。若葉の美しい春や、紅葉が華やかに境内を彩る秋には、この風雅な客殿で、近在の滋味豊かな野菜を使った精進料理を頂くことができる。春は筍ご飯、秋は銀杏ご飯がついた心のこもった料理を、借景の見事な庭園を眺めながら頂くのは至福の思いがする。(要予約)
▼本尊薬師如来(国指定重要文化財)
 白鳳時代 銅造鍍金 総高三八・五cm
 寺伝では菩提僊那がインドから我が国へ来られる時、招来された、龍樹菩薩造立の像であるとされているそうだ。龍樹菩薩は生没年は不詳であるが、二世紀か三世紀頃の南インドのバラモン出身で、インド大乗仏教の哲学者である。般若経で強調されている「空」の思想を哲学的に基礎づけたので、日本でも八宗の祖師と仰がれている。伝説では、龍樹菩薩は樹下で生まれ、竜宮で成道したので龍樹と称したと伝えられる。
 像は衣を左肩からかけ、右肩をあらわしたインド古来の遍袒右肩(へんたんうけん)の形は、インド風ではあるが、白鳳時代に日本で造られたものであろうと言われている。
 肉髻(にっけい・頭が二重になっている。)はあるが螺髪は刻まず、童顔的な端正な面持ちをしておられる。
 伝説によると、正暦寺の入口にある大門付近に青龍ヶ淵があり、この淵から現れた青龍が、一条天皇の勅使を東方にある龍泉谷に導いたところ、本尊薬師如来を得たとも言われる。「正暦寺一千年の歴史」によると、正暦三年の入仏供養には、龍樹菩薩来臨の奇瑞があり、また、一条天皇の発願に際して、龍樹菩薩出現があったので「菩提山正暦寺に『龍華樹院』という院号も附加されたという。」と記されている。
▼孔雀明王坐像(奈良県指定文化財)
 鎌倉時代 木造 像高四六・七cm 総高一一三・六cm
 桧材の一木造りで、頭に透かし彫りの宝冠をいただき、華やかな瓔珞(ようらく)をつけて、孔雀の背に置いた蓮華の上に端然と結跏趺坐しておられる。四本の手の内右前の手には蓮の花、後の手には法輪、左前の手には吉祥果、後の手には孔雀の尾を持っておられる。孔雀は蓮華座の上に立ち、両翼や尾を開いて、大きく開いた尾は、明王の光背の役を果たしている。
 孔雀は毒蛇の天敵とされるところから、毒物や災害から人間を護り、ひいては人間の心の中にある罪業や悩みも除去してくれるとして信仰されている。また、前面左手に持つ吉祥果は水を象徴する果物で、雨乞い祈祷の仏様ともされている。孔雀明王像は美しい像ではあるが、作例は少なく、彫像では高野山金剛峯寺にある像と、この寺の像ぐらいであろうとのことである。
 その他、仏涅槃図や薬師三尊十二神将図、南宋時代の青磁鉢、増壱阿含経など、歴史が古いだけに重要文化財に指定されている寺宝も多い。
【天下の銘酒とたたえられた菩提山の酒】
 汲みてみよ 瑠璃の御壺の 薬師水 諸病を除く 深き誓いを
 と、大和北部八十八ヶ所の正暦寺のご詠歌に詠われているように、清澄な石清水が豊富なので、古くから鎮守社へのお供えの神酒は造っていたようである。中世、十四〜五世紀頃になって、多くの寺院で酒の醸造が盛んになってくると、地の利を得た菩提山は、一躍、南都随一の銘酒の産地と言われるようになった。
 この頃の銘酒として名をとどめているものには、河内の天野山、金剛寺で造られた天野酒、同じく河内の観心寺の観心寺酒、近江の釈迦山百済寺の百済酒、大和多武峰妙楽寺の多武峰酒などがあるが、その中でも正暦寺で造られた「菩提泉」は、醸造方法も先駆的であり、濁酒から清酒に移行した、最初であると言われているそうだ。
 「南都僧坊酒」、「菩提泉」、「南都諸白」、「奈良酒」など、正暦寺で醸造された酒は、色々なブランド名で天下に名をとどろかせた。これらの酒は京洛の貴族や上流社会にもてはやされ、将軍足利義政も「天下の銘酒」と褒め称えたという。
 伏見や灘が酒所として有名になったのは、江戸時代中期位からで、それまでは寺が酒造の専売権を持っていたようだ。
 境内には、奈良県知事柿本善也氏揮毫の「日本酒発祥の地」という碑が立っている。

【大自然に抱かれた広い境内】
 今までは、春か紅葉の頃にお参りすることが多かったこの寺へ、今回訪れたのは十二月二十二日だったので、紅葉はほとんど散っていた。
 すると、今まで南天が沢山植わっているなと思っていたが、これ程とは思わなかった程、参道脇はもちろん、崖の上まで南天が真っ赤な実の房を、冬日に艶々と輝かせているのは、実に見事であった。
 南天は「難を転じて福となす。」という縁起ものであるのと同時に、漢方薬として、南天の実は喘息や百日咳の鎮咳薬といわれ、樹皮や根皮も胃腸・脱肛・眼病にも効き目があるとされているので、お薬師様をお祀りするこのお寺では、植えておられたのが、どんどん山の方まで増えていったのだろう。
 福寿院から少し登ると、左手に観音菩薩のご誓願にちなんだ三十三段の石段と、阿弥陀如来のご誓願をあらわす四十八段の石段がある。それを登り詰めると、左側に鐘楼、正面に本堂、右側には休憩所と土蔵がある。
 山内には、沢山あった塔頭寺院跡に残っていた供養塔や石仏を集めた集めた石仏群も二ヶ所あって、盛時の程が偲ばれる。
 私が初めてこの寺にお参りしたのは、何十年も前のことであるが、この本堂に登る坂の手前で「九輪草枯れず 池田小菊」と刻み込まれた碑があるのを見て、思わず「まあ 先生!」と叫んだ。池田小菊先生は、私よりも九才上の姉が、女高師(現 奈良女子大)の付属小学校へ行っていた時の担任の先生であった。
 私が満一才の誕生日の日、私たちの母が急な病気で死んだので、池田小菊先生は、自分の担当している生徒の姉ばかりでなく、赤ん坊で母を亡くした私のことまで哀れんで、色々心配してくださったようだ。
 私が小学校に行く頃には、先生をやめて、志賀直哉先生のお弟子さんとして小説家になっておられたが、お住まいが女高師の小学校のすぐ近くで「いつでも遊びにいらっしゃいね。」とやさしく言ってくださるので、よく遊びにうかがった。先生は「志賀先生のお宅へ伺ったらメロンをいただいたので、もう遊びに来るころだと思って冷やしておいたんだよ。」と言ってメロンを切ってくださったり、ケーキを出していただいたりした。お家には蔦をからませたりして、奈良町の商家である私の家とは違う、なんだかハイカラな雰囲気だった。直哉先生の坊ちゃんの直吉ちゃんとは幼稚園で隣同士で坐っていたので、今頃は直吉ちゃんも、これと同じケーキを食べているのかな、なんて思ったものだった。池田先生は、戦後、婦人会活動を活発にやられて、女性の社会的地位向上に、随分貢献されたようだ。池田先生は、このお寺が大好きでよく来られていて、住職ご夫妻とも親しくしておられたということだ。それにしても、初めてこの碑を見た時は、まだ真新しくて、一目で池田小菊先生の碑だと分ったのだか、いつの間にか、周囲の風景にすっかりとけこんで、大昔からここにあったかのように、どっしり坐っている。先生もきっと極楽浄土へ成仏しておられるのだろう。
 この寺には、甫田鵄川先生揮毫の
 経もなく 緯も定めず をとめらが 織れる黄葉に 霜な降りそね 大津皇子
 という万葉歌碑もある。大津皇子は天武天皇の皇子だから、この寺が建つよりずっと以前の方だが、円照寺からこの辺りにかけては「清澄の里」と呼ばれる景色の良い仙境のような所だったので、古代から貴族たちが野遊びに来られていたようだ。
 百伝う 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
 という歌を残して悲劇的な最後を遂げられた大津皇子も、この地へ来られた頃は、そんなことは露ほども思わず、華麗な秋景色を楽しんでおられただろう。
【正暦寺人形供養】
 このお寺では、毎年三月九日、人形供養が行われる。初めて来た時、人形がたくさんガラス戸棚に入れてあるのを見て驚いたことがあったが、可愛がっていた人形や縫いぐるみなど、汚れてしまっても捨てるのは可哀想だし、とお悩みの方は、こちらで供養してもらわれるのが良いだろう。