第105回(2004年01月号掲載
静寂なる聖域
円照寺と三門跡尼様
 私は小学校四年生の時、奈良市立済美小学校から、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学。略して女高師と呼んでいた)付属小学校に転校した。当時、女高師の付小は、一年入学の時は、籤引きで、男女併せて一クラス(40人位)を入学させ、三年生までは男女共学なのだが、四年生からは男子組と女子組に分れるので、三年生の終り頃、編入試験が行われて、それぞれ一クラスになるだけの人数が入学許可される。一年生の時、抽選に洩れた私は、編入試験を受けて入った訳だが、転校してきて驚いたのは、電車通学や汽車通学の人が多いことだった。
 済美小学校では校区の人ばかりなので、当時はバスもなく、全員が徒歩で通っていたが、付小には定期乗車券を持って、奈良県内は勿論、京都府や大阪府から通学している人がかなりあった。
 その内に、根木幸ちゃんと福ちゃんという双子の姉妹がいた。目のくるっとした可愛らしい子で、いつもお揃いの服を着て、定期券を落とさないように定期入れに付けた紐を首にかけていたので、よく目立った。私たちはすぐ友達になった。
 ちょうどその頃、我家では飼猫が何匹か仔を産んでいたので、根木さんに「猫の仔はいらないか。」と聞くと、家で許可をもらって、さっそく二人で貰いに来てくれた。猫が大好きらしく、抱きしめたり、頬ずりしたりしながら、大喜びで仔猫を連れて帰っていった。(今から思うと、よく汽車に乗せてくれたなと思うのだか…)
 それからは学校でもよく猫の話をしたり「根木さん」と呼ぶと「ニャーン」と返事をしたりするので、誰言うとなく「ネコちゃん」という愛称がついて、当人達も自認していた。「ネキ コウちゃん」の場合、キを取るだけでネコちゃんになるのだが、福ちゃんも「ネコちゃん」と呼ぶと返事をする程、自他共に許す猫好きだった。
 その根木さんは、帯解―奈良間の定期を持っていたので「帯解のどの辺?」と聞くと、「帯解駅から二キロ余り東へ行った、山村御殿から通っている。」と言われるのでびっくりした。
 帯解寺から御殿迄でも往復四キロ以上あるのに、学校から駅までを加えると、毎日少なくても一里半位歩いていることになる。歩くのが苦手だった私にとっては、驚異的な距離だ。
 小学生の私の頭には、御殿というと、お雛祭の内裏雛の御殿か、京都の御所位しか思いつかない。髪をおすべらかしに結って、十二単衣(じゅうにひとえ)をお召しになった方が住んでおられのかと思ったら「円照寺というお寺で、門跡様という尊い尼様のおられる御殿だ。」という。よく分らないなりに納得していたのだが、奈良県が誇る三門跡の御前様方と親しくお付き合いさせて頂くようになったのは、それから何十年もたってからのことであった。

【円照寺の歴史】
 円照寺の開山、文智女王は、第百八代 後水尾天皇(一五九六〜一六八○)の第一皇女として元和五年(一六一九)六月二十日に誕生され、梅宮と申し上げた。梅宮の生後一年の時、江戸幕府の勢力を伸ばすため、天皇の外戚になろうと考えた徳川家康が、孫娘の和子を入内させて女御とし、寛永元年(一六二四)には中宮(皇后・皇太后・太皇太后の三宮の称)となった。(後の東福門院)
 外戚となった徳川氏は、皇居を造営したり、一六二五年には新に一万石の御領を奉るなど、尊皇の意を表しながらも「禁中並公卿法度」を制定したり、所司代や付武家を通して様々な干渉を加えてきた。
 ことに、一六二七年、徳川家光将軍の時に起った紫衣事件(しえじけん。皇室から大徳寺・妙心寺の僧に賜った紫衣を、幕府が法規を盾に奪い、妙心寺の単伝・東源、大徳寺の沢庵・江月らを罰した事件)は朝廷の面目をまるつぶれにするものであった。その上、一六二九年には、家光の乳母 福(春日局)が無位無官の身で拝謁したことが、積年の幕府に対する天皇の不満を爆発させることとなった。同年十一月八日、突如、中宮和子(東福門院)との間に生れた興子内親王(明正天皇)に譲位された。
 芦原よ、しげらばしげれ おのがまま とても道ある 世とは思えず
 との御製も、そんな心境を詠まれたものであろう。後水尾天皇は在位十八年であったが、明正(めいしょう)・後光明・後西(ごさい)・霊元(れいげん)の四天皇・五十一年間にわたり院政をしかれた。その間、慶安四年(一六五一)には、剃髪して法皇となっておられる位だから、梅宮様も信仰の心がお篤かったのてあろう。
 梅宮様は、十三歳で、左大臣鷹司教平卿に降嫁されてたが、病身のため離婚され、後水尾天皇と共に、禅学の講義を聞かれていた、仏頂国師を導師として二十二歳の時に得度して「大通文智」という禅宗の尼僧になられた。
 文智女王は、得度の翌年の寛永十八年(一六四一)京都修学院に草庵を結んで本格的な修業生活に入られた。しかし、明暦二年(一六五六)後水尾天皇が修学院離宮を造営するにあたり、移転を余儀なくされて、大和国添上郡八嶋に移り、八嶋御所と称した。
 寛文七年(一六六七)東福門院は将軍家綱に、円照寺に知行二百石(後に三百石となる)を寄せるように進言され、さらに、金千両も寄進された。経済的基盤も固まったので、新御殿を造築することになって、少し南よりの山村に堂宇の整備にかかられた。六万千五百余坪(約二十ヘクタール)という広大な敷地に、八嶋御所から本堂の円通殿を移築され、寝殿造りで唐破風の玄関を持つ書院、菅葺の本堂、宸殿(しんでん)、奥御殿、葉帰庵(ようきあん)等、堂宇の整備も整った山村に移転されたのは、寛文九年(一六六九)十一月十二年のことであった。ここで名実共に「山村御殿」となった。
 円照寺御門跡は
第一世 文智 深如海院大通大師 ―御水尾天皇皇女
第二世 文喜 菩提心院大歓尼大禅師 ―霊元天皇皇女
第三世 文応 清浄院大寂尼大禅師 ―霊元天皇皇女
第四世 文亨 歓喜心院大徹尼大禅尼 ―桜町天皇御養子(有栖川宮)
第五世 文乗 常応院大機尼大禅尼 ―光格天皇御養子(有栖川宮)
第六世 文秀 最勝心院大知尼大禅尼 ―孝明天皇御養子(伏見宮)
 と六世までが皇族御出身である。明治維新後は寺領や給付金が無くなったり、昭和になって敗戦後の農地解放によって、小作米収入も途絶えたので大変な時代もあったようだが、門跡様は
第九世 文孝 廣厳心院秀山尼大禅師 ―旧公爵 近衛忠煕 養女
第十世 文線 大慈心院靜山尼大禅師 ―旧子爵 山本実庸 女
 と名門のご出身である。
 十世の山本靜山(しょうざん)様は平成十三年に逝去されて、現在は第十一世村上亮順様が法燈を護っておられる。
 これは噂の域を出ないが、昭和五十年代、山本靜山門跡様は、三笠宮殿下と双子のご兄妹で、大正天皇の皇女であるという風説がにわかに浮上して週刊誌を賑わしたことがある。真偽の程は分らないが、そんな時も山村御殿は世俗にまどわされず、水を打ったように静寂に過ごされていた。それにしても、靜山門跡様は、昭和天皇と御兄妹という噂を聞くと、本当かも知れないと思う程、気品とやさしさにあふれた方であった。

【華道 山村御流】
 一木一草に大自然を彷彿させてくれる山村御流の華道は、自然が損なわれ、日常の生活が自然から遠ざかりつつある現代人に憧憬され、膨大な数のお弟子さんがさらに増えつつある。この華道のはじまりは、開山の文智女王が、ご生母の明鏡院(四辻大納言の皇女お興津の方)が、寛永十五年(一六三八)十一月六日に亡くなられたので、その追善供養まのために、花の多い三月六日に、本堂の円通殿で花を捧げて法要されたことに起因する。それが代々受け継がれて、今も三月六日には円通殿に於て奉華会が行われている。
 摘み集めた花を捧げたという故事が示す通り、なだらかな山に囲まれた山野草の豊かな、景色の良い土地である。
 万葉集に「幸行山村之時 歌二首」があって、境内に歌碑が立っている。
 あしひきの山行きしかば山人の われに得しめし 山つとぞ此れ(万葉集巻二十 4293先太上天皇)
 あしひきの山に行きけむ山人の 心も知らず 山人や誰れ(万葉集巻二十 4294舎人親王)
 舎人親王は天武天皇の皇子で、淳仁天皇のお父様。こうした歌からも、奈良時代、すでに仙境のような景観を愛でて、天皇や貴族達が、この地を訪れておられたことがわかる。
 文智女王のお父様の後水尾天皇は、学問や詩歌に秀でて、花を愛し、池坊専好を招いて「立花の会」を催し、「紫宸殿より庭上南門まで、双方に仮屋を打ちて、出家、町人に限らず、その事に秀でたる者は皆立花させて双(なら)べられたり。」と近衛予楽院の「槐記」に記されている程の風流人であった。天皇は、若き日に仏門に入り山里で修業する女王が献上する山村の花をことにお喜びになったと伝えられる。清楚な花の姿に、女王の面影を偲ばれたことだろう。