第104回(2003年12月号掲載
山添村から旧奈良市への道(3)
 旧奈良市内
 山添村から水間や田原を通って、白毫寺町や能登川町を経た道は、いよいよ旧奈良市に入ってくる。山から来た道が、県道高畑・山村線に突き当たって右に折れて少し北へ進むと、右側(東側)に広大な奈良教育大学のキャンパスがある。この道の東側は高畑町、西側は紀寺町に属する。この地は、高畑という地名が示す通り、春日山から高円山に連なる山並みを背景に、大和高原がゆるやかに西に伸びた台地にあり、静かで美しい環境は、いかにも教育の地にふさわしい感じなので、明治時代に学制が頒布(はんぷ)された頃から、ここに学校があったように思えるが、実は昭和二十年八月十五日の終戦の日まで、ここには連隊があり、門前のバス停も「連隊前」と呼ばれていた。
【連隊と教育大学のあゆみ】
 明治三十七〜八年(一九○四〜五)の日露戦争が終り、平和条約が結ばれたが,国内に於ては軍備の必要論が益々高まり、明治四十一年には大和平野で大演習が行われ、翌四十二年(一九○九)三月二十一日、高畑に陸軍歩兵第五十三連隊が開設された。この明治四十二年という年は、明治三十一年に市制を施行された奈良市にとって画期的な年で、四十二年四月一日には市消防組が組織されて、市役所内に詰所が設置された。同五月一日には、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)が開設されて、「女子高等師範学校は日本広しといえども、東京のお茶の水と奈良と二つしかないんだ。」と奈良っ子の自慢の種の一つとなった。同十月十七日には、鉄道院が、鬼薗山(きおんざん 鬼棲山とも呼ばれていた。)の上に奈良ホテルを開業した。伝説では元興寺の鐘楼に夜な夜な現れて人々を悩ましていたという鬼が棲んでいたという山、室町時代には山城が築かれていたという山の上に、増えてきた外人客に対応する洋風の宿泊施設が建てられたのも、まさに文明開化の時代の象徴であろうと微笑ましい。この年は春日大社の第四十七回の正遷宮も行われた年でもあり、翌四十三年に開場された春日野グラウンドの実地調査が行われる等、静かな古都に近代化への足音が高らかに響いた年であった。
 第五十八連隊は、大正八年(一九一九)の第一次世界大戦の時は、北満派遣隊として中国に渡り、満州鉄道の警備の任にあたったそうだ。しかし、大正十四年の軍備縮小で五十三連隊は廃止となり、京都・深草からの三十八連隊に変わった。
 昭和六年に満州事変が勃発し、翌七年に満州国建国宣言がなされているから、三十八連隊もなんらかの形で出動したのかも知れないが、当時、まだ幼児であった私の目にうつっていた連隊は、春には桜が花の雲のように咲き、(平和な時は、花見時には三日間位、一般の人にも一部開放されて、花見が許されたと思う。)日曜日には面会の人達が門前を賑わせて、のどかな風景だったように記憶している。
 昭和十二年(一九三七)七月七日、蘆溝橋事件に口火を切った日中戦争が拡大してゆくにつれて、連隊前も慌ただしくなり、召集を受けた人達が家族に見送られながら、赤い襷(たすき)をかけて入隊して行ったり、隊伍を組んで見送りの小旗の波の間を出征していく姿が、頻繁(ひんぱん)に見られるようになっていった。昭和十六年十二月八日、ハワイの真珠湾攻撃によって太平洋戦争に突入するや、ますます風雲急を告げ、国内に不安が広がっていった。物資も不足し、軍隊には優先的に物資がまわると思うのだが、私ども女学生も、連隊の内に設けられた縫工所へ、兵隊さんの服やシャツの修理に、よく動員されたものだ。
 連隊の南側の道の奥には陸軍病院があって、戦傷や戦病の方達が入院しておられたので、よく慰問に行った。個人的に知った方があるという訳ではなく、戦争で心や身体に傷を負った方をおなぐさめしようと、集団で行くのだが、却ってうるさかったかも知れない。けれども、兵隊さん達は、決して好戦的な人達ではなく、純朴で実直な青年たちだった。話の中に、戦争になんか行きたくないんだけれど、愛する郷土や家族達を護るためには、仕方がないのだという心が読み取れた。こうした方達が、戦後、持ちなれない銃を、持ち馴れたペンや鍬やそろばんに持ち替えて、日本の復興に尽くされたのだと思う。
 昭和二十年(一九四五)八月十五日、戦争が終わってからは、米国の進駐軍の兵舎となっていた。
 一方、奈良教育大学の前身は、明治五年(一八七二)に公布された「学制」によって、従来学問は、華・士族のものと思われていたのだが、親の職業や男女を問わず、小学校は義務教育となった。とりあえずは、既存の藩校や寺小屋が利用されたが、教員の養成が急務となり、明治七年、興福寺の旧食堂(じきどう)に、小学教員伝授所「寧楽(なら)書院」が開設された。
 明治元年に奈良県となった大和の国々は、色々の経過を経て明治九年には堺県に吸収され、さらに明治十四年には堺県が大阪府に吸収され、大和の国も大阪府の直轄となっていた。奈良県設置が県民の悲願となっていたが、明治二十年(一八八七)、再設置が裁可され願いが叶った。それにともなって、旧寧楽書院が県庁となり、翌年十一月十八日、登大路町の県庁の並びに、奈良県師範学校として開校された。
 明治三十五年、県師範学校女子部が開設され、同三十八年、奈良県女子師範学校として独立した。(校舎は、現奈良女子大学の向かいにあったが、今、その敷地は奈良女子大学の学生寮や学制部事務局になっている。)
 昭和二十四年、師範学校は奈良学芸大学に昇格し、その後、奈良教育大学と改称された。進駐軍が引き上げた後、奈良教育大学はこの地に移り、奈良県教育のために大きな役割を果たしている。また、かつての陸軍病院の跡は高畑合同宿舎になっている。
【練兵場とその後】
 公園の方から南に伸びている循環道路は、教育大学の正門の辺りから西の方へと向きを変える。教育大学が連隊だった頃は、連隊前の循環道路の南側は、広大な面積を持つ練兵場であった。練兵場という位だから、兵隊さんの訓練等をしておられたのだろうけれど、戦争がまだ始まっていなかった私たちの子どもの頃は、この広い原っぱは子どもたちの絶好の遊び場であった。 野芝やクローバーが生えているから、転んでもあまり痛くないので、男の子たちは凧揚げや陣取り合戦に駆け廻った。
 春には、たんぽぽや紫雲英(れんげ)・すみれ、初夏にはクローバー、夏から秋にかけては水引草やあかまんま(犬蓼 いぬたで)、秋には女郎花(おみなえし)やふじばかまが咲く。練兵場のまん中は踏み荒らされて、たんぽぽや紫雲英が咲いても、地面にくっついたように丈が短いので、女の子たちは、もっぱら周辺部で花を摘んだり、蝶を追っかけたりした。たんぽぽや紫雲英、クローバー等は茎を編んで、花の冠や首飾りを作った。ことに、紫雲英の首飾りをしたままお風呂に入ると、良い香が浴室いっぱいに漂って、お姫さまにでもなったような気分だった。姉は、糠袋に紫雲英の花を交ぜて顔を洗っていた。その頃は糠袋に紫雲英や黒砂糖を入れて洗うと肌が美しくなると信じられていたようだ。練兵場は、各種のバッタやトンボ、ブンブン等の甲虫類、蝶々などがいっぱいいて、夏休みの宿題の昆虫採取のために、捕虫網を持って追っかけたのも、なつかしい思い出だ。
 今、かつての練兵場には、奈良女子大学の付属中・高等学校や、国立奈良病院、住宅公団紀寺住宅や東紀寺住宅地となり、文化的な町を形成している。廣っ場であった時も広いと思っていたが、こうして建物が建ち並ぶと、改めて広大な敷地だったのだなあと、実感する。
 ここまでくると、山添村からお茶を背負って来て下さった方達の目的地である我家、増尾商店は目と鼻の先で、人々はホッとしたことであろう。山添村やその近在から荷物を運ぶのに、牛車か人の背に頼るより仕方のなかった運搬手段に、画期的な方法が出来たのは大正時代であった。
【索道にまつわる思い出】
 大正七年に山辺郡の小倉・田原・奈良市の京終町を結ぶ「奈良安全索道株式会社」が設立されて、大正八年から東山中で生産される高野豆腐や野菜・木炭・木材等が、これによって運搬され、奈良からは住民の生活必需品が運ばれるようになった。
私がこの索道で物資が運ばれる様子を実際に見たのは、まだ幼稚園にも行っていなかった昭和4・5年頃であったろうか。祖父が肘塚(かいのつか)町で土地を買って畑を作り始めた。(土地はもっと以前に買っていたのを、この頃になって店の仕事を息子にゆずって、隠居して閑になったので、健康のために土いじりを始めたのかも知れない。)
 祖母は昔かた気な人であったので、畑仕事をして着物に土をつけたままで、肘塚から元興寺まで歩いて帰ってくる祖父に、「そんな格好で歩いて貰っては、女の私が笑われます。畑なんかやめて、家で今まで通り、盆栽の手入れか、謡の稽古でもしていて下さい。」と言っていた。しかし、祖父はとりあわないで「正子行こうか。」と私を連れて、よく畑に行った。(今から思えば、当時父や祖父は、一見木綿のように見えるが、木綿ではなく結城紬をふだん着にしていたから、祖母がボヤくのも無理がなかったかも知れない。)畑を作るといっても、五百坪ほどある土地の中のホンの一部を耕して、花や豌豆(えんどう)や胡瓜を趣味で植えていた位だから、周囲には柔かな草が生茂っていた。どうしてあんなに草が柔らかかったのだろうと思って、当時の権利書を調べてみると、地目は宅地が百五十坪程で、あとは田となっている。祖父が買うまでの頃は田んぼだった訳だから、土が肥えていて軟らかいから、草が柔らかいのも当然だ。その草の中にカラスのエンドウが沢山群がって生えていた。祖父はその豆を採って笛の作り方を教えてくれた。軸の付いた方を少しちぎって中の豆を取り出し、豆のサヤを縦に含んで吹くと、ピーツと澄んだ音が、青い空に呼びかけるようにやさしく響いた。雀のテッポウも穂を抜いて吹くと笛になった。
 祖父と楽しい時間を過ごした、その土地の地続きが、索道の発着場所だった。索道を辞書でひいてみると「架空した索条に搬器(はんき)を吊るして、人または物を運搬する設備。架線ともいい、鉱業・林業の運材施設として利用。ロープウェイの法令上の呼び名。」とある。
 この索道は荷物専用のもので、大きな鉄の板のような搬器に、山で伐り出した原木や炭俵等が、山の方からロープ一本で宙を浮かんでやって来て、だんだん低くなったと思うと、隣地で積んで来た荷物を降ろして、そのまま空で帰って行くものもあれば、荷物を積み替えて上がって行くものもある。うちの店の砂糖もよく積んでいた。子どもの目には、まるで魔法の乗物のように見えた。危ないと思うのだが、荷物を宰領するためか、人が乗っていることもあった。
 この索道が小倉〜京終間を結んでいたのは、凍豆腐の運搬が大きな目的の一つであった。山添村史によると、
“天保年間(一八三○〜一八四四)小倉の杉本武助という人が、高野山で凍豆腐の製造法を習得して郷土に伝えたといわれている。これが「小倉山凍豆腐」の名で、山添山間の特産物となった。山添村では気候の関係で東山・豊原(切幡)地域に限られていた。凍豆腐製造工場のことを「こうや小屋」と呼んでいる。こうや小屋は凍結に好適な寒冷地及び水車を設備できる水利に適した場所が選ばれた。製造期間は六○日ないし七五日で、農閑期を利用する副業であった。明治以降には「小倉山凍豆腐同業組合」が組織され、(中略)厳選して品質の向上を図り、大阪市場に「小倉山凍豆腐」の名声を博することが出来た。
 原料大豆や製品の運搬は牛車が唯一の方法であり、困難を極めたが、大正・昭和の時代になって、小倉―田原―奈良京終を結ぶ索道が架設され、凍豆腐黄金時代の輸送機関として貢献したが、今は全く面影もなく、昔語りになった。一時は大いに名声をはせた凍豆腐も、人工冷凍豆腐の出現により大きな痛手を受け、天然を相手とする凍結によらなければならないこの地方には、決定的致命傷となり、特産品としての跡を絶つに至った。”と書かれている。
 私の子どもの頃は、この天然凍豆腐(高野豆腐と呼んでいた。)を、大きな籐の乳母車に積んで奈良町を売り歩いている、新しい日本手拭で姉さんかぶりをしたおばさん達の姿をよく見かけた。
 天然凍豆腐は、炭酸を入れて戻さなければならないし、炭酸の量や戻すお湯の温度によって、戻りすぎて煮くずれしたり、コツコツしてかたかったり、料理のコツを要したが、今の人工物では味わえない滋味があった。なつかしいものの一つである。
 運搬が人力に頼るより仕方のなかった時代から、汽車が出来、索道がついて、京終付近は大いに賑わった。運送屋が軒を並べ、商人宿や食べ物屋が繁盛し、材辰さんはじめ、大きな材木屋さんが殷盛(いんせい)をきわめていた。
 祖父も「今、家が持っている土地の中で、肘塚の土地が将来一番値打が出るで。あそこに、京終駅から直接貨車が入れるように、引き込み線を敷いた倉庫を建てたら良い。」と言っていたが、そのうち戦争で砂糖が不足して、倉庫どころではなくなり、戦争が終わって砂糖が自由販売になる頃には自動車の時代になってしまったので、祖父の念願の倉庫は、肘塚ではなくて、循環道路筋の紀寺で、トラックが乗り入れられる形で建つことになった。索道も昭和二十六年には、その姿を消してしまった。
【京終という地名】
 京終をキョウバテと読める人は、奈良の人以外には少ない。よく、「ペキンオワリ町(北京終)はどこですか。」とか「ナンキンオワリ町(南京終)へはどう行きますか。」と聞かれて、一瞬とまどうことがある。
 奈良時代、平城京は、左京は二条通りから五条通りまで、東に三坊分張り出していて、外京と呼ばれ、その部分に東大寺や興福寺、元興寺等が建っていた。現在の京終辺りは、東向あたりから餅飯殿通りを通っていた外京六坊大路と、五条大路の延長線が交わる辺りになるので、京(みやこ)の終点といった意味で、京のハテ、キョウバテとなったのではないかと思われる。
 私の母の里が大和高田だったので、子どもの頃、京終駅から汽車に乗って高田に遊びに行ったり、叔母が来るのを京終駅まで迎えに行ったりしたなつかしい場所である。その頃は乗降客も多く、駅員さんも沢山いて賑やかだったのに、十年余り前、久しぶりに汽車で桜井に行くのに、京終駅に行ったら、無人駅になっているのでびっくりした。
 この頃、京終の繁栄を取り戻そうと、住民の方達が活動しておられるようだか、一日も早く、昔のほんわかとした情緒のある賑わいを取り戻して頂きたいものだと祈るこの頃である。