第103回(2003年11月号掲載
山添村から旧奈良市への道(3)
 田原から旧奈良市へ
 澄み切った空気と明るい陽光に、艶々と緑を輝かす茶畑に囲まれて鎮座まします春日宮天皇田原西陵を過ぎて少し行くと、左手(南方向)の小高い山の上に、周囲の山村の風景と一寸雰囲気の異なった建物が見えてくる。
【奈良県ヘリポート】
 平成十年十二月十二日に開港した公共用ヘリポートである。現在、ヘリポート敷地内には、県警察航空隊と県防災航空隊の建物と、民間用としてアカギヘリコプター株式会社の格納庫が設置されている。この地からヘリコプターを利用すると、関西国際空港まで約20分、大阪まで約15分、自動車で行くと随分時間がかかる十津川村まででも約20分以内に到着できるので、救急医療・防災・警察活動をはじめ、行政サービスの向上および、民間の産業活動の支援に、大いに役立っているということである。
 道が岩井川に添って走る辺りまでくると、川沿いに遮蔽塀(しゃへいべい)が長々と続いている。景色の良い所なのに不粋な塀だなと思うが、岩井川治水ダム工事のためだそうだからしかたがない。治水というのは、防災のためにも、灌漑などの水利のためにも大切なものなんだから。
【岩渕寺(いわふちでら)】
 川べりの道を下っていくと、道の北側に鳥居が建っていて、岩渕寺口というバス停がある。鳥居とバス停の間には、岩渕寺と岩渕明神と刻まれた由緒ありげな二基の碑が立っている。石段を登ると、山水を竹の樋でひいた御手洗(みたらし)があり、さらに登ると、昭和三十三年に造られたという灯明台があるだけで、寺らしい建物は無いが、なんだか霊気ただよう雰囲気である。
 岩渕寺という名前は、新薬師寺の有名な国宝十二神将が、創建当初の十二神将が焼失したので、鎌倉時代に岩渕寺から移されたと伝えられるので(伝説では、大洪水で岩渕寺から流れて来たといわれる。)寺名のみ知っている程度である。
 「田原村史」によると“石淵寺(いわもちでら)は旧跡幽考によると「高円山の東に此寺の跡あり、俗に石淵という。」とある。開山は弘法大師の師 僧正 勤操(ごんそう)で、盛時には一千の堂坊を有したが、年代不詳時に、天地院(てんもんいん)と争いを生じ、共に兵を起こして、同時に焼失してしまった。新薬師寺の有名な十二神将(国宝)は、もと岩渕寺のもので、岩渕寺の荒廃後ここに移された。勤操和尚の作といわれる。”とある。
【寺 開山の勤操大徳について】
 天平時代、大和国高市に、奏氏夫妻が仲良く暮していた。子どもに恵まれないのが唯一の悩みであったので、駕竜寺に詣でて、子どもが授かるように祈ったところ、ある夜、明星が懐に入るという霊夢を見て懐妊されたそうだ。そして、天平勝宝六年(七五四)にめでたく生れたのが、後の勤操大徳だという。
 十二才で大安寺信霊の門に入り、二十三才の頃、具足戒を受け、大安寺僧として善議大徳に師事し、三論の奥義を授けられた。岩渕寺はこの頃創建されたのであろうか。
 岩渕寺での伝説には、次のようなものがある。
 勤操の弟子の栄好は親孝行で、僧として支給される食物をさいて、年老いた母のもとに届けていたわっていた。ところが、栄好はふとした病で死んでしまった。勤操は憐れんで母に栄好の死を知らせずに、毎日、童子に食物を運ばせていた。母は、栄好が来ないのに食事が届くのを不思議に思っていたが、やがて母も亡くなった。
 勤操は栄好母子のために、岩渕寺で法華経を講じ、四日間、朝座、夕座の二座を勤めて、追善供養をしたと伝えられる。これが、岩渕八講で、現在も行じられる法華八講(経一巻を一座として、法華経八巻を八座で完結させる法要)の起りといわれる。
 都が京に移ってからは、当時、造営中であった東寺(とうじ)の別当に任じられた。さらに、羅生門をはさんで東寺と対称の位置に西寺(さいじ)を造営されるにあたり、造西寺司となり、西寺の別当も兼ねた。天長四年(八二七)勤操大徳は西寺の北院で遷化され、僧正位を追贈された。
 弘法大師とのかかわりは、若き日の空海を伴い、和泉の槇尾山に行って出家させた剃髪(ていはつ)の師で、虚空蔵菩薩求聞持法を授けたのが勤操大徳だと伝えられる。また、空海が遣唐僧として唐に勉学に行くことが出来たのも、勤操の力によることが大きかったと言われている。
【鹿野園】
 さらに、奈良に向かって下ってくると、道の右側(北)が白毫寺町、左側(南)が鹿野園町となる。
 鹿野園とは、大仏開眼の導師を勤められたインド僧、菩提僊那(ぼだいせんな 婆羅門僧正とも呼ばれる。)によって、故郷インドの仏教聖地サルナートにちなんで名付けられた地名である。
 お釈迦様は、釈迦族の国であるカピラバストゥの王子として産れられた。生母のマヤ夫人は、お釈迦様を産んで七日目に亡くなられたが、父王と、父王と再婚された叔母様のマハーラジャバティーによって、何不自由なく大切に育てられた。
 幼い時から慈悲の心の深い王子は、農夫や牛馬が苦労して耕作する姿を見ては哀れみ、虫が鳥についばまれるのを見て、世の苦しみを悟った。また、王城の東門から外へ出ると哀れな老人に会い、西の門から出ると病に苦しむ病人を見、南の門から外出しようとすると死人に遭遇して、生あるものはいつかは体験する、生・老・病・死の四苦をいかに救うべきかについて悩まれた。
 そして北の門から出た時、出家して修業する人に会って、自分の進むべき道を予見された。釈迦は、人間の持つ四苦八苦を救いたいと、二十九才の時、親も妻子も置いてカピラ城を夜陰にまぎれて出奔された。愛馬のカンタカに乗り、五人の従者(後の五大弟子)を従えて、当時、修行者が沢山住んでいたマガダ国に行って修業された。
 マダガ国で、アーラとウッダガという二人の修行者について禅定や学問を学ばれたが満足が得られず、苦行林と呼ばれる前正覚山で、常人では成し得ない苦行を六年間もされて、死の直前まで行ったが、悟りは開けなかった。
 釈迦は、この体験によって「極端に肉体を苦しめる事は、精神の安定を得るよりも、却って心が乱れるものである。」「心の安静は健全な身体によってこそ得られるものである。」と、気づかれた。釈迦は山を下りて尼蓮禅河(ニレンゼンガ)で長年の苦行で垢づいた身体を綺麗に洗い清められた。そこに通りがかった村の乙女スジャータは、骨と皮だけの釈迦を見て、思わず持っていた乳粥を「どうぞおあがりください。」と差し出した。五人の従者達は、苦行される釈迦の姿を見て感嘆し、いまに悟りを開かれるだろう期待していたが、乳粥を召し上がるのを見て、釈迦は食物の誘惑に負けて堕落してしまったと思い、彼を捨てて去ってしまった。
 体力を回復された釈迦は、尼蓮禅河を渡って、ガヤの町の南の郊外にあるアシュバッタの樹の根本で瞑想に入り、十二月八日の未明、明けの明星と共に、宇宙人生の真理を悟って、仏陀となられた。それ以来、この地をブッダガヤ、釈迦が悟りを開かれた時、影を貸していたアシュバッタの樹を菩提樹と呼ぶようになった。釈尊は、この木の下に七週間座禅を続けて、悟りの内容をまとめ、世人に説き示す方法を考えられたそうだ。
 悟りを開かれた釈尊は、その境地を誰に話そうかと考えられ、まず、自分を捨て去った五人の弟子達に話してみようと、サルナートに向かわれた。サルナートの一キロ位手前の小高い丘の上で、五人の弟子の一人が、向こうから歩いて来られる釈迦の姿を見つけ、ほかの弟子達に知らせた。ほかの弟子達も、釈迦は堕落してしまわれたのではないかと思っていたので、様子を見に、この丘に来て眺めていた。だんだん近づいて来られる釈迦の姿を見ると、おのずから威厳が備わり、一見して悟りを開いて仏になられたことを知り、ひれ伏して釈迦を迎えたという。この丘には、古い煉瓦造りの迎仏塔が建っている。
 お釈迦様はサルナート(鹿野園)の、五世紀頃に建てられたダメーク塔の辺りで、初転法輪(初めてのお説教)をされたそうだ。その時、五人のお弟子さんと共に、鹿も沢山聞いていたというので鹿野園と呼ばれたという。
 奈良の鹿野園も、この初転法輪の地名から名付けられた。この奈良の鹿野園で一寸面白い話がある。
 日本経済が、戦争の痛手から、まだ充分には立ち直れていない、昭和二十年代の後半のことである。その頃はまだ自動車による配送はほとんどなく、遠距離の輸送は貨車で、近くは荷車や牛車、自転車などで運んでいた。
 私の家は、昔から砂糖や小麦粉の販売をしているので、当時は、国鉄京終駅に着いた荷物を、駅前の運送会社の人達が、荷車でうちの倉庫まで運んでくれていた。なにしろ貨車は10トン車にしろ、15トン車にしろ、荷車では何台もで運ばなければならない。荷物は毎日着くので、運んで来てくださる人達、五、六人は毎日顔を合わせていた。ところが、その中の一人の姿が二、三日見えないので、うちの店の者が「○○さん、どうしやはりました。顔見やしまへんな。」と聞くと「あの元気なやつが、急に熱を出して休んどりますねん。鬼のかく乱みたいなものですわ。」と答えられたそうだ。
 どうされたのだろう、早く元気になれば良いが、と思っていると一週間ほどして、その人が来られた。いつも通り荷車を曳いてはいるが、なんとなく顔色がさえない。「どうしたんですか、しばらくお顔が見えませんでしたけれど。」と聞くと、「いやぁーもう不思議な話で、今でも思いだすと気分が悪うなるんですわ。」と前置きして言われるには「先週の日曜日、ポカポカ陽気の気持の良い日だったので、蕨(わらび)取りに鹿野園の方に行きました。春の日を浴びた蕨を摘みながら山の方に近づくと、なんとなくザワザワと聞きなれない音がするので、何だろうと音の方に近づいて潅木の間からのぞくと、そこは少し窪んだような割に広い草むらになっていて、驚いたことに、何百匹とも知れない程の蛇がウジャウジャといたのです。それが、まるで何か会議でもしているように集って、その真ん中で、大きな蛇が訓辞でもするようにとぐろを巻いて鎌首をもたげているんですよ。
 私は思わず腰を抜かしてしまいましてね。ガタガタふるえがきて、ほうほうのていで家へ帰り着くなり熱を出して寝込んでしまいました。今になると夢かまぼろしのような感じもしますが、蕨取りに行ったのも事実ですし、病知らずだった私が、一週間も起きられなかったのも事実です。」とのことであった。一時、この話が有名になって「あの辺は地熱が高いから蛇が好んで冬眠をするのだろうか。」などと、話のタネになっていた。そして、口々に「そんな所だったら、掘ったら温泉が湧き出すかも知れないよ。」と言いあっていた。
 この時は無責任なうわさ話に過ぎなかったが、それから数年たって、後に市長となって福祉の向上に努められた故鍵田忠三郎氏が、その地で温泉を掘り当てられて、鹿野園温泉を建設して人々から憩いの地として喜ばれた。その時、建設にたずさわった人から「蛇の多いところで、よく蛇にでくわしましたわ。」と聞いて、蛇の集会の話を思いだした。
 今その地には、奈良春日病院が建っていて、病める人達の身体や心を癒し続けている。やはり鹿野園という地名は、菩提僊那僧正が単なる思いつきで付けられたのではなく、聖地だったのだなと思う。
 聖地と言えば、県道をへだてて向いの白毫寺町には、奈良東山霊園や寺山霊園があって、この世の生を終えた方達が安らかに眠っておられる。昔、私の家の墓も、この奈良東山霊園にあった。私は子ども頃、祖父や祖母に連れられてお墓参りをするのが大好きであった。
 春には蝶が群れ飛ぶ道を、れんげやたんぽぽを摘みながら歩く。晴れ上がった空からは、雲雀(ひばり)のさえずりが聞こえてくる。秋には、赤とんぼやむぎわらとんぼ、ぎんやんま、おはぐろとんぼ、糸とんぼなど色々な蜻蛉が飛び交い、曼珠沙華や赤まんま(犬蓼 いぬたで)が彩る野道を歩く。行きに摘んだ花は、お墓の花立てに、大人が持ってきた花と一緒に入れると「お利口ちゃんね」と褒められるし、帰りに摘んだ花は、ママゴト遊びのご馳走になる。
 今のように手軽に旅行などに連れに行って貰えない時代の子ども達にとっては、お墓参りも楽しいレクリエーションであった。