第102回(2003年10月号掲載
山添村から旧奈良市への道(2)
 伝説の里田原
【春日宮天皇 田原西陵(志貴皇子のお墓)】
 志貴皇子は三十八代 天智天皇と、采女の越道君伊羅都売(こしのみちのきみのいらつめ)の間に生れられた皇子である。
 志貴皇子は生前、天皇位にはお就きにならなかったが、皇子の御子、白壁王が、七七○年、第四十九代光仁天皇(奈良時代最後の天皇)として即位されるや、その年(宝亀元年)に亡き父君に天皇号を贈られたので、春日宮天皇と尊称されるようになった。以来、それまでは志貴皇子のお墓であったのが、春日宮田原西陵と呼ばれるようになった。
 志貴皇子はお兄様の弘文天皇(大友皇子)と、叔父様の大海人皇子(おおあまのみこ 天武天皇)の間に起きた壬申の乱(じんしんのらん)で、天智天皇の息子の弘文天皇が敗れ、第四十代天皇として天武天皇が即位されると、非常に難しい立場に立たされ苦労されたと思われる。
 むささびは 木末求むと あしひきの 山の猟夫に あひにけるかも
 という御歌がある。「むささびは、木末を飛び出したばかりに、山の狩人に捕まってしまったのだ。かわいそうになあ。」といった意味だが、これは志貴皇子の心の内を表しているように思われる。出しゃばったらやられるのだから、政治の世界には出ないで、内輪、内輪に控え目に暮す。この苦労が皇子の人間性に磨きをかけて、心づかいの細やかな秀歌が、万葉集に六首残されている。
 采女の 袖吹き返す 明日風 都を遠み いたづらに吹く
 私は以前この歌は、都を遠みという言葉から、都が平城に移ってからの御歌だと思っていた。ところが、犬養孝先生が、これは都が飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)から、藤原京に移って後、古都の飛鳥浄御原へ来られた時、往時を偲んで作られたお歌だと教えてくださった。そう言えば当時、奈良から飛鳥までは、身をつつしんで暮す王族の方にとって、簡単に訪れられる距離ではなかっただろう。
 古都に立って、明日香風に、女官達の華やかな衣裳の袖が吹き返されていた、あでやかな光景をなつかしんでいて、フト我にかえると、都が藤原京に移ってしまった今は、丈高く生えた草を揺らせながら、風は空しく吹いているだけだという、華やかさと、それだけに一層寂しさが感じられる。「采女の袖 吹き返す」という言葉の中には、采女であったお母様への追憶がこめられているのかも知れない。
 葦辺ゆく 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕は 大和し思ほゆ
 これは、文武天皇の慶雲三年(七○六)九月から十月にかけて、天皇が難波に行幸された時、随行していかれた志貴皇子が詠まれた歌。旧暦の九月から十月といえば、現代の十月から十一月、まして人家も少ない難波津は、夜になると冷え込んだのだろう。
 葦辺を泳いでゆく、鴨の羽の上に霜が降って、寒い夜は、大和の事がしきりに思われるといった歌だろうか。今と違って、山を越え、野を越えて行かなければならない、故郷大和への思いが、伝わってくるような歌である。
 志貴皇子のお立場を考えるせいか、哀愁を含む感じの御歌が多いけれども、内には
 石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも 
 と、春の訪れを素直に明るく詠んでおられる秀歌もある。
 志貴皇子の生れられた年は、辞書にも不明となっているのだが、三十八代の天智天皇の御代に産まれられて、四十四代 元正天皇の霊亀元年(二年という説もある。)九月に亡くなっておられる。この時代、天皇のご在位の年数も少ないからであろうが、大津宮、飛鳥浄御原宮、藤原京、そして、奈良の高円山のふもとの白毫寺の辺りに住まわれ、田原の里へ葬られるという、当時としては大移動された方だ。気苦労で魂を磨き上げられた皇子は、人々から敬慕されておられたようだ。
 万葉歌人の笠金村(かさのかねむら)の挽歌に次のような秀歌がある。

 霊亀元年(七一五) 歳次(乙卯) 秋九月
 志貴皇子みまかりましし時作れる歌一首、ならびに短歌
 梓弓 手にとり持ちて ますらをの
 得物矢手ばさみ 立ち向かう
 高円山に 春野焼く 野火を見るまで
 燃ゆる火を いかにと問えば
 玉桙の 道来る人の 泣く涙
 こさめに降り 白妙の 衣ひづちて
 立ち留り 吾に語らく 何しかも
 もとな言ふ 聞けば 
 哭のみし泣かゆ 語れば心ぞ痛き
 天皇の 神の御子の いでましの
 手火の光そ ここだ照りたる

      ―反歌二首―
 高円の野辺の秋萩 いたづらに
   咲きか散るらむ 見る人無しに
 三笠山 野辺行く道は こきだくも
   繁り荒れたるか 久にあらなくに

 平素なら、雄々しい大宮人達が梓弓を持ち、獲物をとる矢を手ばさんで狩りに行く高円山に、春の野を焼く野火のように、えんえんと燃えている火はなんですか。道来る人が(玉桙は道にかかる枕言葉)、雨が降るように泣いて、白い着物をびしょぬれにしながら、立ちどまって私に語るには「なんだって、そんなことを言うんですか。聞けば、泣けて泣けてしかたがないし、語れば胸がはりさけんばかりに痛みます。あれは天皇様のお子様の、野辺送りのたいまつの光ですよ。沢山の人達の野辺送りの火がここまで照らしているのですよ。」といった意味だろうか。問答形式になっているが、もちろん、笠金村が、志貴皇子の野辺送りの火と知らなかった訳ではなく、客観的な表現で感動を与える技法であろう。
 赤々と燃える火の列が延びて行くが、火のもつ華やかさはなく、思い描くだけでも、胸がキュンとなるような寂しさが伝わってくる。
 反歌は後日の話で、
「高円の野辺に群咲く秋萩も、それを愛でてくださった皇子が亡くなられて、むなしく、咲いては散り、咲いては散りしているだろうな。見てくれる人もいないのに。」
「三笠山の野辺を行く道は、なんとひどく繁り荒れ果てたことよ。皇子がお亡くなりになってから、まだ久しくもならないのに、侘しくなってしまったな。」
 志貴皇子のお邸の跡に建てられたという白毫寺には、今も白萩と赤萩が乱れ咲いて、寺の後方には高円山、そのむこうにある志貴皇子のお墓(春日宮天皇田原西陵)に向かって、火の列が延びていったのだなと、風情をしのぶことが出来る。志貴皇子の慎重な穏忍自重の生活が、皇統を、奈良時代から平安時代へ綿々と、今日の皇室の弥栄をもたらしたものだろうと思う。
【南田原と俵藤太秀郷】
 田原は俵を沢山収穫できるという、ことほぎの名称である。昔、朱雀天皇(九三○〜九四六年)の頃、俵藤太秀郷という武者がいた。天皇の宸襟(しんきん)を悩ませていた、近江の三上山を七巻半もしていたという大むかでを退治したので有名な俵藤太は、この南田原の出身であるとの言い伝えがある。
 御伽草子(一六二四〜四四年頃刊行)の「俵藤太物語」は、絵入本で、刊行以来広く流布して人気を博した。御伽草子によると、朱雀院の御代、近江の国の唐橋に二十丈(約六十六メートル)ばかりの大蛇が横たわって、往来の人々は難儀をしていた。
 俵藤太は、平気でこの大蛇の背中を踏んで渡りおおせた。下野(しもづけ)に下る東海道の宿で、夜更に二十才程の美しい女性が現れて「竜宮を悩ましている大むかでを退治してください。」と頼まれる。女は大蛇に身を変えて、むかでを退治し得る勇者を探していたのであった。俵藤太は、見事に大むかでを退治して、女からお礼として、尽きることのない巻絹と米俵、思いのまま食物が湧き出る鍋を贈られた。
 藤太は竜宮に伴われて歓待を受け、鎧、太刀と、祇園精舎 無常院の鐘を鋳直したという、赤銅の釣鐘を贈呈された。俵藤太は、この名鐘を三井寺に寄進したので、寺では盛大な法要を営んだという。(上巻)
 下巻では、下野にいた秀郷(俵藤太)は、同国相馬の平将門(たいらのまさかど)を討つことを奏聞し、追討におもむくが、将門は五体ことごとくが金(かね)で出来ているので討つことができない。秀郷は方便をめぐらせて、一旦将門に奉公し、小宰局から影武者の秘密を教えられ、また、耳の根だけが肉身であることを知って、見事に将門を討ち取ることが出来た旨が記されている。
 俵藤太秀郷は、藤原秀郷で、下野国(今の栃木県)の郷士の出身だというが、若い時は身持ちが定まらず、配流されていたという説もあるから、その頃、俵藤太と称して、田原の方に住んでいた事があるのかも知れない。もしくは、よそから俵という語から、田原の出身だろうと聞いた先人が、田原の誇りとして、語り伝えたとも考えられる。