第101回(2003年09月号掲載
歴史や伝説が息づく
山添村から旧奈良市への道(1)
 私の家の先祖は、安政元年、奈良町の元興寺に居を定め、大和茶と木炭の店を開業したという。嘉永七年というより、安政元年と言ったほうが年数を数えやすいので安政と言っているが、嘉永七年の六月十五日と、十一月四日、五日に大地震がおこり、日本各地で甚大な被害をこおむったので、同年十一月二十七日に安政元年と改元されたそうだ。この嘉永七年の大地震のことも、安政の大地震と呼んでいる位だから、うちの店もあるいは嘉永七年だったかも知れない。安政二年には江戸でも大地震があって七千人もの人が死んだり、安政の大獄がおこったり、時代の黎明を迎える前の暗さと、天災人災におびえる騒然とした時代だったようだが、一般市民はお上に対する不満など考えず、唯ひたすらに働いたのであろう。
 初代の出身地の東山村(現山添村)から、炭やお茶を運んで来て下さる人達は、片道二十五キロの山道を荷物を担いで、よく働く人は一日に二度も往復されたそうだ。
 初代の娘である私の祖母が、やっと物心ついた明治の初め頃、炭を運んで来たおじさんが、梅干一つ入っただけのお弁当を食べながら、大人の人たちに「此の頃の若い者は贅沢になりよって、一食に梅干を一つ食べよる。わしだったら梅干の種をしゃぶってでも、一食ぐらい食べる。」と言っておられるのを聞いて、びっくりしたそうだ。子供の頃、食物の好き嫌いを言っている私に、祖母がその話をしてたしなめた時、梅干一粒でご飯を食べるなんてと、おそらく祖母がその話を聞いた時以上のショックを受けた。
 今、考えてみると、その頃山から炭や茶を運んで下さった年代の人達は、大地震の復興や、その後の風水害、雹害(ひょうがい)による不作などに耐えて、健闘して来られた方達だったのだろう。我家では、いつも苦労して荷物を運んで来て下さった方々を温かいお茶で迎え、冷たくなったお弁当を食べる人のために、いつも季節の野菜をたっぷり入れた熱い味噌汁を用意していたそうだ。今だったら味噌汁ぐらいと思うが、当時は意外と喜ばれて、近隣の村からもお茶を運んで来て下さるので、奈良町だけではさばき切れなくなったお茶を、木津川から舟に積んで大阪や堺に卸に行き、帰りに空舟で帰るのはもったいないからと、阿波の白下塘や、沖縄の黒糖を積んで帰ったのが、今日の砂糖傳(初代が傳次郎といったから)の始まりである。
 ところで、山の人達はどんな道を通ってお茶や炭を運んで下さっていたのだろう。私は県道が出来てから車でしか行ったことがないから旧道のことは分らないが、道順にそって、歴史や言伝えを調べたいと思う。
【室津】――
 先祖の出里、峯寺から川にそった道を大橋に出て、西に向かうと、室津の村落に入る。(県道が出来るまでは、村の中のけわしい坂道を通っていたそうだ。)
 山添村史には「室津は、室津のスッポコ谷といわれるように、ムロの語義に当てはまる、自然の地形をなしている。」と書かれている。これを読むと、祖母がよく「室津には、昔、氷室があって、冬出来た氷を夏まで保管して、奈良に運んではってんで。」と言っていたのを思い出した。「山添村史」や「村の語りべ」等の郷土資料にも書いてないし、山添の人達に聞いても知らないと言う。
 しかし、辞書で氷の歴史を調べると「律令制下(大化の改新から後、奈良時代を経て、平安初期頃までの三世紀)では、政府管掌の氷室が置かれ、その氷は宮廷内の飲用や冷蔵用にあてられた。」とある。
 清少納言も「枕草子」に、あてなるもの(優美なもの)の一つとして「削り氷に甘葛(あまかづら)を入れて、新しき金鋺(かなまり)に入れたる」と記しているから、氷はいかに貴重なものであり、宮廷内でそれだけ使用するには、冬期にかなりの量の氷を貯えておかなくてはならなかっただろうと思われる。
 江戸時代でも、将軍に富士山の氷を献上するのに、現在の静岡県富士宮市の浅間神社から一里程奥の宮山に貯蔵しておいた氷を運んだというから、夏の氷というのは、今では考えられない程、貴重な物だったのだろう。奈良には氷室神社の氷室があるが、更に大量の氷を確保する為には、清らかな水の豊富な山添村で冬に作った天然氷を、天然の室のような地形の室津で(土を三メートル位掘り下げ、底や側壁に草を敷き、茅や粗朶を並べ、氷を入れて土で覆って。)夏まで保管していたのではないだろうかと想像できる。
 奈良時代でなくても、いつかの時代、祖母の言うように氷室の役をしていたのかも知れない。(氷室は具体的な形が残った遺跡は、全国的に発見されていないそうだか、都の近くの寒冷地には、各地にあったのではないだろうか。)
(わさび)――
 水が美しく、空気が清澄であるといえば、今から二百二十年程前の安永年間に、奥中弥兵衛という人が、自然生えの山葵(わさび)を植え付けて栽培したのが「東山わさび」として有名になった。戦前までは大阪の市場にも出荷していたが、太平洋戦争中「かんじんの刺身にする魚が手に入らなくなって、わさびも売れへん。」と言って、よく山の方からわさびのトウ等を沢山頂いた。菜の花のつぼみに似ているが、さっと茹でてお浸しにすると、わさびの風味と莟の香ばしさがあって、なかなか美味しいものだったが、戦後は静岡産のわさびに押されて、此の頃はあまり作っておられないようだ。
(苧うみ)――
 室津には、小物成(こものなり 江戸時代、田畑から上納する、年貢以外の雑税)として、麻を納めたという記録があるそうだ。衣服の材料として麻もよく栽培されていたのだろう。昔は、室津に限らず、東山地区全体に、麻の皮から苧を取って、一筋の糸につなぎ合わせる「苧うみ」が、農家の女の人達の大切な夜なべや冬仕事になっていた。原料の麻糸を農家に配布して「苧うみ」の出来た糸枷(かせ)を集めて問屋に持って行くのを生業とする「かせ屋」もたくさんあったそうだ。この頃の都会の人達は「夜なべ」という言葉も知らないのではないだろうか。(残業はしているとしても。)
【水間(みま)町】――
 水間もかつては東山村であったが、昭和三十二年に奈良市に合併されて、奈良市水間町となった。「東山村史」には「水間は村内最大の盆地で、穀倉地帯をなしている。ここは周囲の深い山谷から湧き出た幾筋もの水の流れ、吹合峯・松峰の水を集めた別所川、天王谷から出る水、また、岩谷・水間峠の水を集めた流れなど落ち合って、豊富な水をたたえている。最初の地表面は原始林というよりも、芦の生茂った沼地であったであろうか。ここは開墾の先決条件となる溜池を必要としない。水間村落の発祥地として、水間の地名―水の間にできた村落名の起りにふさわしい水田地帯であるということができるであろう。」と書かれている。この地区の各地から、石の鍬や土師器の壺・坏・坏の蓋等の破片や木製容器などが出土しているので、弥生時代頃からの人々は、農耕に適したこの地に住んでいたのだろう。
【田原地区】――
 展望の素晴らしい水間峠を越えると間もなく田原地区(旧田原村)に入る。田原という地名は、俵を沢山収穫出来る土地と、大地を誉めたたえ、豊饒を神に祈願し、豊作への努力を神々に誓って名付けたものであろう。奈良市に合併されてからは、各大字名が町名になっている。
【日笠町】――
 この地に、奈良時代最後の天皇、光仁天皇の田原東陵がある。「続日本記」に延暦五年(七八六)十月二十八日、旧狭川村の廣岡山陵から、ここに改葬されたと記されている。お父様の志貴皇子(しきのみこ 施基皇子とも書かれる。)の田原西陵が矢田原にあるし、この地は、光仁天皇がまだ白壁王と呼ばれていた時代の思い出の地であったからだろう。
 日笠には、後に光仁天皇の夫人となられ、山部親王(後の桓武天皇)・早良親王(さはらしんのう)をお生みになった新笠姫が住んでおられたという伝承がある。新笠姫は百済系の氏族のの美しいお姫様だったので、白壁王は姫を恋い慕って足繁くお通いになったロマンの地と伝えられる。
 私が学校へ行っていた戦争中は、出来るだけ御陵へお参りすることが奨励されていたので、遠足で、この田原西陵・東陵へお参りに来たことがある。もちろんバス等には乗らず歩いてである。暑い頃で、喉がかわいて、水筒のお茶をみんなが飲み干して困っていた。道ばたで坐って休憩している時、誰かが「冷たい水が飲みたいな。」と言ったのを聞きつけた近所の方が、親切に呼び寄せて、冷たい井戸水をたっぷり入れて下さった。冷たい自然水の美味しさと共に、山の人達の温かな親切が忘れられない。
【此瀬(このせ)町】――
 此瀬は、町名の瀬の字が示すように、清らかな白砂川が漣(さざなみ)を陽光にきらめかせながら流れる、静かなお茶の里である。なだらかな丘陵の斜面を、丸くかまぼこ型に刈り込まれたお茶の木の畝が、オブジェのように艶やかな緑で彩っている。このお茶と米作りの静かな町のトンボ山と呼ばれる山の一角にある茶畑から、古事記の編纂者として有名な太安万侶(おおのやすまろ)の墓と墓誌が発見されて、センセーションをひきおこした。
 太安万侶は、和銅四年(七一一)九月、元明天皇の詔によって古事記の撰録に着手した。彼の仕事は、代々語り部によって語り伝えられてきた神代以来の伝承や歴史を、当時の語り部巫女の稗田阿礼(ひえだのあれ)から聞いて、整理し、書き残すことであった。多氏(おおうじ)は平城期から、宮廷神事の中で、雅楽を司る家柄であった。こうした生活環境と安万侶の高い教養が、稗田阿礼が語る資料を立派にまとめられたのであろう。
 安麻呂は壬申の乱の時、天武天皇側で活躍した武将、多品治(おおのほむじ)の子であると言われている。奈良盆地の中心部の田原本町の南方にある多神社には、安麻呂の出身氏族 多氏の祖神と安麻呂が祀られている。
(太安麻呂の墓発見)――
 清文社発行の「奈良点描」によると、昭和五十四年一月十八日の朝から、この茶畑(此瀬町四七三番地)の持主、竹西英夫さんが奥さんの初枝さんと一緒に、この茶畑の木を新品種に植えかえようと思って畑を掘り返しておられたところ、午後になって、深さ三十センチ程の地中から、真っ黒な木炭のかけらが出てきた。翌々日、炭焼き場の跡ではないかと思って、さらに十センチ程掘ると、ボソッと約三十センチ四方の穴があいたという。恐る恐る中を覗くと、穴の中に灰が見え、人骨の小片が手に触れたのでびっくりして、その日は作業をやめて、改めて二十二日の朝から、寺で供養してもらうために、骨を拾い集めていたら、一番底から銅の銘板を発見した。
 早速、県文化財保存課に連絡し、橿原考古学研究所の末永雅雄先生の鑑定を受けた上、二十三日に正式公表されて世間をアッと驚かせた。
 太安麻呂の墓と確認できるキメ手となった墓誌は、縦二十一・九センチ、横六・一センチ、厚さ約○・一センチの銅板で

左京四條四坊從四位下勲五等太朝臣安麻呂以発亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳

 と二行で書かれていた。「続日本紀」では、死去の日が一日違いの七月七日になっているが、位階勲等は一致しているので、間違いないと断定されたそうである。安麻呂は、四條四坊というから、大安寺の北方、平城京の南東約一キロ、現在のJR奈良駅の西方あたりに住んでいたようだ。墓誌を一番底に納め、その上にカシ炭を敷いて、木櫃(もくひつ)を安置して、周囲を更に木炭で覆って、その上に土を乗せてつき固める版築手法をとっていたので、約千二百五十年もの間、崩れずに残っていたのだ。木櫃はほとんど腐っていたが、木炭は崩れずに残っていたので、火葬された安麻呂の骨と副葬品として真珠が納められていたことを確認できたという。木炭の防腐力は素晴らしいものだと改めて感心する。遠い遠い伝説上の人物のように思われていた太安麻呂も、この墓の発見から、奈良県民にとって現実味をおびた、身近な存在に感じられるようになった。
【茗荷(みょうが)町】
 茗荷は、東大寺の大仏開眼供養の時、開眼導師をつとめられたインド僧、菩提僊那(ぼだいせんな)が、春日山を中心に、インドの仏蹟五聖地にちなんで名付けられたうちの一つだと思われる。
 お釈迦様のお弟子さんの中に周利槃得(しゅうりはんとく)という方がおられた。愚鈍でなかなか教義が理解できなくて、人から馬鹿にされているのを憐れんだお釈迦様は槃得に、僧侶の履物の塵を払うように命じられた。黙々と履物の塵を払っているうちに、槃得はついに阿羅漢の悟りを開き立派な仏弟子になったという。
 周利槃得が亡くなられて、その墓地に生えだしたのが茗荷だったそうだ。茗荷を食べると物忘れするという俗説も、ここから生れたのであろうか。「大賢は愚なるが如し」という言葉があるが、非常に賢い人は、一寸見ると愚かな人のように見えるというが、槃得も小賢しい話には耳を傾けず、ひたすら作務に励むうちに、本来の悟りを開かれたのであろう。
 昔は茗荷から須山・鉢伏・鹿野園を経て旧奈良市に入っていたそうだが、この鹿野園も、お釈迦様がブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開かれてから、初めて説法をされた初転法輪の地、サルナートの和訳(漢訳かな?)である。サルナートには鹿が沢山いて、お釈迦様が初めて法を説かれた時も、お弟子さん達と一緒に鹿も聞いていたということである。また、ジャータカ(本生譚、釈迦の前世の物語)にも、昔からこの地には鹿が沢山棲んでいて、他の者を助けるために自分の身を犠牲にしようとした鹿の王様が、お釈迦様の前世の姿だったという話があり、サルナートというのは、サーランガ ナータ(鹿の王)に由来すると言われている。
 明治二十二年、田原の人々や天理教信者のひのきしんによって、岩石谷が開削(かいさく)されて、荷車の通る道になったので、鹿野園をまわる道はあまり使われなくなったという。