第100回(2003年08月号掲載
一万二千年も昔から
人が住んでいた山添村
 山添村は奈良市には含まれていないが、昔から奈良の人達に「東山中」(ひがしさんちゅ)と呼ばれて親しまれ、現在奈良で仕事をしている方々の中にも、東山中出身の方が多い。数年前、私共マスオグループ各社の新入社員入社式の折、新社員が一人ずつ自己紹介をした。
「私は水間出身のAです。よろしくお願いします。」「私は山添村北野のBです…」と進んでいくうちに、前からいる社員の一人が、明るい口調で「なんや、山中からばかりやな。」と声をかけた。すると次の人が「奈良市生まれのCです。」と言った。さっき「山からばかりやな。」と言った人は「そやけど、お前も柳生やろ。」と言葉を返したので、一同大笑いになって、新旧社員は和やかな暖かい雰囲気に包まれた。もちろん、声をかけた人も山中出身で、隣村や近所の大字出身者に思わず親近感をこめて声をかけたのである。それほど、純朴で勤勉な山の人達は、奈良の企業に貢献してくれている。かく言う私の先祖も、約百五十年前に、旧東山村(現山添村峯寺)から、奈良町の現在地に出てきて店を構えた。今回、書き綴ってきた「奈良の昔話」も連載百回目を迎えた。その記念に、先祖の出身地 山添村に思いを馳せて、山添村の昔話にも少しふれてみたいと思う。
 山添村は山が深いので、豊かな山の幸に恵まれ、布目川、深川、名張川、遅瀬川、堂前川、笠間川などの清らかな水も豊富なので、縄文時代から人が住んでいたようだ。
【大川(おおこ)遺跡】
 昭和三十二年(一九五七)橿原考古学研究所によって、中峯山字大川の、名張川が迂曲している辺りを発掘されると、縄文初期とみられる石器や土器が出土した。土器のなかには、他のどの遺跡にも見られない押型文のものがあって大川式と命名された。大川遺跡は、その後、数度発掘調査が行われ、竪穴住居跡も三基検出されている。人々が、八千年位前から、この地で狩猟したり、魚を捕ったり、木や草の実を食べて生活していたであろうと思うと興味深い。
【北野のウチカタビロ遺跡と桐山の和田遺跡】
 平成三年(一九九一)十月十六日、布目ダムが完成して、水不足の不安が解消されると同時に、奈良の水道水が美味しくなった。この布目ダム建設に先だち、水没地となる桐山和田遺跡、北野ウチカタビロ遺跡の発掘が大がかりに行われた。同遺跡からは、縄文時代草創期の隆起線文土器や、大量の石の矢じり、草創期前半の石斧(せきふ)が発見された。縄文文化の特徴を持つ土器、石の矢じり、石斧の三種が揃って出土した遺跡としては、日本最古のものと言われ、他地域に先駆けて、布目川沿いに縄文文化が発生していたことを物語っている。縄文時代草創期(一万二千年〜九千年前)の人たちが暮らした跡も、今はダムの湖底で静かに眠っている。
 日本は、神武天皇が即位された年を皇紀元年として、今年で皇紀二千六百六十三年に当たる(皇紀元年は西暦紀元前六百六十年)というが、神武天皇より一万年近く前に、既に山添村の一部には人が住んでいたというのは驚きだ。
【村の語り伝え】
 山添村は古くから人が住んでいた土地だけに、沢山の伝説がある。山添村発行の「村のかたりべ」から、その二、三を紹介しよう。
▼神の山 神野山の伝説
 標高六一八メートルの神野山(こうのさん)は裾野を長く伸す美しい山で、別名「大和富士」とか「法楽山」と呼ばれて、神の山として崇敬されてきた。頂上にある王塚は、春日大明神(武甕槌命・たけみかつちのみこと)の伯母様にあたる1速日命(ひのはやひのみこと)の陵と伝えられて、信仰されている。伝説では、むかしむかし神代の頃に1速日命という美しい女神が伊勢に住んでおられた。あまりにも美しい方なので、多くの男の神様たちが恋いこがれて、集ってこられるけれど、とても皆の好意に応えられないと「ひのはやひのみこと」は、伊勢から熊野を通って、吉野の山中にひっそりとかくれ住まわれた。それでも男の神たちが、探し求めてつきまとわれるので、女神は更に北へ進んで、大和の神野山の弁天池のほとりにひっそりと移られた。それでも男の神々は女神を追って神野山に駆けつけてこられた。たまりかねた女神は、その目を逃れるために、一匹のオロチ(大蛇)に姿を変えられた。
 女神を恋い慕って、山また山を越えて来られた男の神様たちの目の前に横たわるオロチ。これがあの美しい「ひのはやひのみこと」とは気づかなかった神々は「おのれ行く手をはばむ憎っくきオロチめ。」と、それぞれの剣を抜いてオロチを殺してしまわれた。するとオロチは見る見るうちに美しい女神の傷ついた姿に変わって倒れておられた。
 男神たちは、その痛ましい姿を見て、涙のかれるまで泣き、自分たちの勝手な思いが女神をこんな姿にしてしまったことを悔い、なげき悲しみつつ、神野山頂上に女神の墓を造り、お祀りしたのが、この王塚だと伝えられる。そして、五月になると山一面に咲き誇る紅のツツジは、清らかにも艶やかであった女神を象徴する色であると言われている。
 これによく似た話が春日山にある。
 昔、むかし、常陸の国 鹿島で東国の鎮護にあたっておられた武甕槌命が、大きな白鹿に乗って、お母様の甕速日命(みかはやひのみこと)がおられる奈良の春日野へやって来られた。その時、鹿島から命(春日大明神)のお供をして来た舎人(とねり)が、若々しくて美しい甕速日命に魅せられて恋のとりこになってしまった。けがらわしいとばかりに、一切相手にされなかった甕速日命も、あまりに舎人がしつこいので、山に隠れようと、ある夜、こっそり御殿を抜け出された。それに気づいた舎人が後をつけて行くと、甕速日命は飛ぶ鳥のように速く逃げられるので、舎人は大蛇に変身して、走りにくい山道を追っかけた。とうとう川の側まで追いつめられた甕速日命は、ついに剣を抜いて大蛇を切り捨てて、山に身を隠されたという。やがて、その山頂に、武甕槌命、甕速日命、舎人を祀る社が建てられたのが、現在、春日山山頂の高峰に鎮まる末社「神野神社」の説話である。1速日命と甕速日命はご姉妹だから、随分、美人の家系の神様だったのだろう。
 ちなみに物語に出てくる「大蛇」「川又は池」「剣」は、いずれも水の神様と深い関係があるもので、豊作を願って水霊神を崇拝したことを物語っていると言われる。
▼八十八夜の山登り
 立春から八十八日目の八十八夜の頃になると、神野山は全山紅ツツジに彩られ、小鳥のさえずりが、人々の心を山へと誘う。神野山の近郷の人々は、昔から、八十八夜には仕事を休んで、重箱にご馳走を詰めて家族連れで神野山に登って花見を楽しみ、近在の人たちとの親交を深める習慣がある。遠くへ嫁に行った娘たちもお婿さんを連れて帰ってくる。若い人たちは同窓会のように集って思い出話をしているうちに、ロマンが芽生えて良縁が結ばれたり、山は平素とうって変わった賑わいを呈する。
 山頂には露店が並んで子ども心をくすぐるし、大人たちは、花と、心尽しのご馳走と酒に酔いしれて、歌ったり踊ったりで、日の暮れるのも忘れて、天下晴れての野休みの日を楽しむ。私も、数回招かれたことがあるが、澄んだ山うぐいすの声が聞こえるし、燃え上がるようなつつじつの花、各家から持って来られた重箱のご馳走を分け合ったりして、本当に楽しい一日だった。
 しかし、八十八夜だと、五月一日の年や二日の年があるので、この頃は五月三日の休日に行われ、名も「つつじ祭り」に改められ、連休中なので、遠くから人々が訪れて、ますます賑わいを増しているそうだ。この「つつじ祭り」が済むと、村は、茶摘みや米作りに忙しいシーズンに入る。人々は農繁期を前にして、神野山の霊気の中で、心ゆくまで野休みを楽しみ、精気を養うのだろう。
▼鍋倉渓(なべくらけい)のいわれ
 神野山の東北の中腹には、生駒石に似た、大きな黒い岩が、るいるいと、幅三十メートル位、長さ約六百メートル程に積み重なって谷を埋め尽くしている異様な光景の場所がある。これが、昭和三十二年、奈良県指定の天然記念物となった「鍋倉渓」である。岩に耳を近づけると、岩の下の方から、かなりの水が流れているような音はするが、水は見えない。伏流水なのだ。ここにも面白い言い伝えがある。
 昔、神野山は天狗が住んでいる大きな杉の木が一本生えているだけの禿げ山だったそうだ。
 一方、伊賀の国にある青葉山には、数々の草木が生い茂って、緑も豊かな上、奇岩も沢山あって、まるで庭園のようだったという。
 神野山と青葉山には、それぞれ天狗が住んでいた。ある時、両方の天狗は些細な感情の行き違いから、けんかを始めた。激昂した青葉山の天狗は、草や木を手当たりしだい神野山に向かって投げつけたり、山の岩をぐっと起こして力の限り投げつけて来たそうだ。神野山の天狗は思うところがあって、飛んでくる岩を、とび切りの術で、ひらり、ひらりとかわしていると、伊賀の天狗は、ますます怒って、次々と岩をなげつけてくる。けんかの終わった頃には、青葉山には草木や岩が無くなって、禿げ山になり、神野山は飛んできた岩で鍋倉渓ができ、山の頂上まで草木が生い茂り、五月にはつつじの花が咲き乱れる、美しく、奇景に富む山になったそうだ。

▼山中(山添村)のおじさんの思い出話
 私の子どもの頃「山中のおじさん」という方が、よく遊びに来られた。まるで、絵本に描かれている正直じいさんが、そのまま抜け出して来たようなかっこうで、春には草餅やあんこ餅、秋には栗や柿などを天びん棒にかついで沢山持って来てくださった。大人たちは「みのさん、みのさん」(己之松という名前)と呼んで、祖母の従兄だそうだが、子どもの私の目には、物語の世界からやって来た人のように見えた。
 お酒が大好きで、好々爺らしい、満面に笑みを浮べて、久闊の話をしながら、盃を傾けている姿は、幸せそのもののように見えた。しかし、大人になってから話を聞くと、当時の軍国日本には数多くあったであろう悲しみを、体験して来られたようだ。
 己之松さんは、私の曽祖父の出里、旧東山村峰寺で生れ育たれ、結婚してからは一男三女に恵まれて、幸せに暮らしておられた。三人の娘さんたちは良縁を得て、近隣の村に嫁ぎ、本来なら長男に嫁を迎えて、賑やかに暮らしていける筈だった。ところが、日露戦争が勃発して、頼りにしていた一人だけの男の子は、出征して戦死してしまった。両親の悲しみは、はかり知れないものだったろう。そう言えば、昭和になってからも「必ず毎年、遺族会の人たちとお伊勢参りに行く。」と言って、その帰りには、いつも伊勢土産の熨斗形をした「しょうがいた」を届けてくださったものだった。
 そのうち奥さんも亡くなられて、年老いた己之松さんは、一人暮しになってしまった。そこで、隣村に嫁いでいた長女の子息の寿春さんが、お祖父さんの面倒を見るため、養子に来られた。
「真面目な働き者で、年寄りにもやさしいし…」と、祖母もベタぼめに誉める好青年であったが、この人も太平洋戦争で出征してしまった。己之松さんは、一人っきりになった家で淋しく亡くなられ、峰寺の家は空き家になってしまった。
 そうこうしているうちに、戦争は熾烈さを加え、本土も空襲されるようになった。その頃「峰寺の家が空いているんですから、疎開して来られたらどうですか。」と、山中の親類の人たちから薦められて、祖母が先ず疎開した。「山中のおじさん」と、いつも親しんでいながら、一度も行ったことがなかった私も、時々訪れるようになった。そこは、どの家からも、一人、二人は兵隊に行っているということを知らなければ平和そのものの桃源郷であった。
 今は名阪国道に通じるため、家の前の道も広くなって車がよく通るようになったが、その頃は、家の前を下って行くと、布目川の清流が流れていて、まわりは緑におおわれた山や茶畑。桃太郎のお伽話の冒頭に出てくる「お爺さんは山へシバ刈りに、お婆さんは川へ洗濯に。」という言葉を連想させるような風景だった。人々は親切で、農家といえども食物が不自由な時代であったのに、近所から代り番こに「色ご飯を炊きましたから。」とか「さつま藷をふかしましたから。」と持って来てくださった人情の厚さは、今も感謝している。
 峰寺の家の前に立って、晴れた空にくっきりと稜線をあらわす山を見ていると、思わず
山のあなたの空遠く さいわいは住むと人の言う ああ我、ひととめ行きて
涙さしぐみ眺めん 山のあなたの空遠く さいわいは住むと人のいう
 と、声を出して歌ってしまった。私も主人が兵隊に行ってしまっていたので、山のあなたにあるという、さいわいの地を求めたかったのだろう。
 その頃、この家の主の寿春さんは、台湾沖のバーシー海峡で、乗っていた駆逐艦に魚雷が命中して沈み、海に投げ出されて、浮いていた板にすがって約3時間、高い波に翻弄されていたのを救助されて、九死に一生を得られたそうだ。
 頭の挫傷、下顎骨骨折で、口も開くことが出来なかったそうだが、七ヶ月の闘傷生活を終えて、元気に復員して来られた。神仏や御先祖のお護りがあったのだろう。今は良い奥さんと子どもや孫に囲まれて幸福に暮らしておられる。
 戦争さえなければ、己之松さんも幸せに暮らせたのだろうになと、人の良さそうな山中のおじさんの笑顔を思い浮かべる時、今も世界の中では、もっともっと苦しみあえいでいる人たちがあることに思いを馳せ、世界の恒久平和を祈らずにはおられない。