第10回(1996年02月号掲載)

奈良町の冬の話

 奈良町に多い四間どりの家は、人寄りの時は襖を取り払うと大広間のように使えるので、婚礼や葬式などの時には便利であった。夏は開け放つと風通しが良くて涼しいが、気密性に乏しいので冬は寒かった。暖房用具の主役が火鉢とこたつであり、ガスストーブや電気ストーブも性能の悪いものしか無かったせいである。その代わり、家族ができるだけ一つの部屋に集まって火鉢に手をかざしたので、民話が語り継がれ、家族の間の会話もはずみ、親子の断絶なんて話は聞いたこともなかった。火鉢は単なる暖房用具ではなく、皆で餅や芋を焼いて食べたり、家族の団らんの場でもあった。橙の搾り汁で紙に絵や字を書いてあぶり出しを作るなど、子供達の遊び場にもなった。
 暖房が効かないだけではなく、気温も低かった。寒(かん)に入ると氷点下の日が多く、道路に水を打って掃除をすると水がすぐに凍って危ないので、寒い日は水も撒けなかったものだ。
 町内に一軒ずつくらいある八百屋さんの店頭には、水を張った器にこんにゃくや豆腐、くわい等を入れて並べられていたが、その水が凍ってしまい、お客さんが買いに来ると店の人が砥石などでその氷を破って売っているのは、見ているだけでも冷たそうだった。
 猿沢池なども毎年凍って、子供達はその氷の厚さを試すためによく石を投げたりしたものだ。ある寒い年など、池全体に氷が張りつめて、周囲は子供が乗っても割れないくらい厚かったので、猿沢池でスケートの真似事をする子が出てきた。ところが、池の真ん中辺りは氷が薄かったのか、氷が割れて池に落ちて大騒ぎになったことがあった。翌日学校の朝会の時、校長先生から、「猿沢池でアイススケートをしてはいけません。」とご注意を受けて禁止になったのだが、このごろでは薄氷も張らなくなった。
 水仕事をよくする女中さんや寒風をついて自転車で配達する丁稚さん達は、手や足に皹(あかぎれ)をつくった。早く治すためには、その割れ目にマツチ膏という黒い膏薬を入れて、その上に焼いた火箸をあてて薬を溶かしていた。大変よく効く薬だそうだが、見ているだけでも熱そうで身がすくんだ。今から思えば、中学生か高校生くらいの年頃だから、随分つらいことも多かったと思うが、「艱難汝を玉にす」がモットーの時代なので、弱音を吐く人はいなかった。その頃働いてくれていた人達が、何十年もたった今でも、「先代にはいろいろお世話になりました。」と盆や彼岸に家のお墓に参りに来てくれるたびに、苦労がこの人達の人格を磨いたのだなと頭の下がる思いがする。そこで私達も昔から働いてくれた人達に感謝する意味で、「マスオグループ従業員物故者菩提の為の写経」を胎内に収めたお地蔵様を元興寺に奉納して供養していただき、春秋の彼岸や地蔵盆にはお参りしている。
 水仕事をしない子供達の手足も霜焼けで赤くふくれて痒がったり痛がったりしていた。だから、手を切るように冷たかった水がぬるんで日差しが明るくなってくるだけで、自然に唇がほころぶ思いだった。つくしが可愛い頭を覗かせ、小川が早春譜を奏で始めると、やがて来る爛漫の春への期待に胸を弾ませたものだ。しかし、暖房の行き届いた部屋で、冬でも真っ赤な苺やアイスクリームを食べられるような昨今の生活では、春を待つ切実な気持ちが薄らいできたような気がする。
 雪国で生まれ育った人が、「この辺では冬でも草が生えているから、雪が解けて黒い土が見えるようになった時の喜び、草の芽吹きを見つけた時の感激を知らない。『草の芽が出てる』と子供達が騒ぎたてると、大人も仕事の手をおいて見に行き、春の近づきを喜び合ったものだ。それが雑草であっても、土を割って出てきた緑というだけで、有難く尊く見えた。」と言っておられるのを聞いたことがある。
 個人差はあるだろうが、寒さによって春を迎える喜びの度合いにも差があるようだ。これは人生についても言えるのではないだろうか。受験勉強が大変だった人ほど、合格の喜びも大きいだろうし、作るのに苦労した物ほど、完成した時、充実した満足感を得られるのではないだろうか。
 一億總グルメ嗜好と言われる飽食の時代にあって、物資不足の頃、皆で分け合って食べた一個のおにぎりの美味しかったことを思い出す時、冬には冬のよさがあるように、苦労の時代もまた捨てたものでもなかったと思えてくる。その意味でも、このごろ問題になっているフロンガスによるオゾン層の破壊や温暖化現象は心配だ。冬はやはり冬らしいほうが安全だし、春を迎える喜びも大きい。


◆奈良町歳時記 二月

 戦前の奈良町には、一町内に一軒ぐらいは八百屋さんがあった。節分前になると八百屋さんの店先に「赤鰯」というジャギジャギに塩をした赤っぽい鰯が並ぶ。どこの家でも赤鰯を買って、その頭を柊の小枝につけて魔除けに門口へ挿し、蕎麦よりも太く長く生きられるようにと、うどんと一緒に食べるのだが、私は赤鰯を食べたことがない。というのは、赤鰯は両親がそろっている人だけが食べる習慣になっていたから、赤ん坊の時母を亡くした私の膳には一塩の鰯がついている。父や店の人達についている赤鰯を見て「あれが欲しい」と言うと、たいていのことは聞いてくれる祖父母も困ったような顔をするし、丁稚さんや女中さん達が寄って来て、「私らもあんな辛いのより、とおさんのような物のほうが美味しくてよろしおますねんで。あんなん辛うて食べられしまへん」と一生懸命なだめてくれるのだが、決して取り替えようとは言わなかった。習慣というものはそれほど厳しく守られていたものだ。この「とおさん」という呼び方もこのごろは聞けなくなったが、奈良町の商家では親奥さんを「お家(え)はん」、若奥さんを「ご新造(しんぞ)さん」、男の子は「ぼんぼん」、女の子を「とおさん」と呼んでいた。
  紅殻の門に柊挿しにけり
 神社やお寺では豆まきや鬼追式が行われるので、子供達は誘い合わせてお参りに行く。
  大焚火の煙に神事ゆれて見ゆ
  放たれし破魔矢寺門にとまりけり
 豆まきの豆は土へ落ちたものが芽を出すと縁起が悪いと、念入りによく煎られた。長寿を願う大小色とりどりのねじり飴を贈ったり贈られたりしたものだ。
  熨斗目着の袴をさばき鬼やらふ
  鬼の面かぶりし子等が豆拾ふ
  豆まきが豆合戦となりにけり
 二月の初午や二の午には厄除けのお参りに行く。どこのお寺でも厄除けのご祈祷はしてくださるのだけれど、男二十五才と二十二才、女十九才の厄年には、精一杯おめかしをして岡寺参りをするのが昔は見合い代わりになって良縁を得る人が多かったそうだ。
 初老と呼ばれる四十二才の人は黄色い甚平を着て、黄色い鉢巻やたすきをした親戚縁者を引き連れて、還暦の人は赤い甚平を着て、赤い鉢巻やたすきをした人達にかこまれて松尾山へ参る。殊に還暦は派手に行われる。私の祖父の還暦祝いなどは、三日間宴会が次々と行われ、何百組もの紅白のお鏡を得意先に配って、松尾山へお参りする日は、お客様の接待のために奈良の芸者さん全員について行ってもらったことを子供心に覚えている。帰りには厄除けの花かんざしを女は髪に、男は鉢巻や帽子に挿して帰る。六十才というのは、当時としては皆で祝うほどの長寿だったのだろうけれど、主役の本人は祝宴で飲み過ぎてその後中風になったりする人もあったと聞いている。このごろでは、四十二才や六十才は、自他ともにまだまだ若いという意識が強く、お祝いをするにしても身内だけ、厄除けのお参りも自分達だけでひっそりとするようになったので、あまり派手な一行は見かけなくなった。
  初午や願いそれぞれ護摩を焚く
  初午の護摩木に墨のにじみけり
  藁づとの花かんざし売る春隣り