第08回(1995年12月号掲載)

奈良町歳時記十二月

 十二月十五日には、春日大社若宮様のおん祭に先立って、餅飯殿にある大宿所で大宿所祭が催される。各地から奉納された山鳥や雉を掛け連ねた懸鳥が参拝者の目を奪い、渡御用の衣装や武具等が展示される。
 十二月十七日はおん祭。おん祭には、普通の出店のほかに川蟹の店がたくさん並んだ。大きな鍋で茹でながら売られている蟹は、はさみの辺りに黒い毛が生えていて馴れない人が見ると気味が悪いそうだが、甘味の多い美味しい蟹だった。けれども、多く捕り過ぎたせいか、あるいは農薬や工業用水で川が汚れたからか、今ではほとんどその姿を見なくなった。
 猪の皮の靴も、姿を見なくなった物の一つである。猪の皮を縫い縮めたような不恰好な靴だが(ニュージーランドの民芸的な靴に似ている)、分厚い靴下や足袋を履いてこの靴を履くと非常に暖かくて動き易いので、農作業や殊に山仕事に最適だといって近在の農家の人達に人気があった。おん祭には露店だけではなく、サーカス小屋やろくろ首、曲芸等の見世物小屋が建って、ジンタの響きが子供心をそそった。おん祭はお旅所へお参りに行くだけで学校は休みだったから、お参りを済ませた子供達はお渡りの行列を見たり、見世物小屋を覗いたりして、奈良で年内最後で最大のお祭を楽しんだ。家ではのっぺ汁とさいら(サンマの開き)が待っていた。
  おん祭の行列の先鹿歩く
  拍子木を打って取りしくおん祭
  おん祭馬上憶さぬ馬長児
  寒風に声張り上げて槍投ぐる
  槍持ちにも作法のありておん祭
  供奴に女もまじるおん祭
  寒風を被衣でさけて春日巫子
  青首を垂れて懸鳥吊さるる
  影向の松の下式優雅なる
  島台の如きをかぶり田楽奏

 おん祭が済むと、米のとぎ汁に棒鱈を漬け込む。
  背を丸め棒鱈を買う年の暮
 毎日水を替えないと臭くなるので、毎日きれいに洗って水を替えると、カンカンだった干棒鱈は本来の魚らしい形に戻ってくる。
  水かえる度に棒鱈太りゆく
 冬至には中風にならないまじないだと言って、南瓜を食べて柚子湯に入った。
  冬至南瓜皮が硬くて小さかり
  柚子の香を仄かに纏い湯を上る
 お餅つきも、このごろはほとんど餅屋さんに頼むようになったが、昔は年末になると町のあちこちから餅つきの音が響いた。子供達はつきたての温かい餅を丸めるのが楽しみだった。食べ盛りの店の住み込みの人達がたくさんいたせいもあるが、私の家では毎年十臼(一臼で三升)以上の餅をついた。そのうち一臼は、つきたてに黄な粉や餡をつけてその日のうちに食べてしまった。その辺を取り粉で真っ白にしながら、ペッタン、ペッタンと餅をつく音、春を待つはしゃいだ笑い声、それは本当に心暖まる歳末風景であった。
 お餅つきが終わると注連縄作りだ。祖父が元気な頃は、田舎から届けられた新藁を丹念に木槌で打ってしなやかにし、それを器用に綯って(なって)注連縄を作りながら、いろいろな話をしてくれた。自分の子供の頃のこと、祖父の兄嫁がたった十六才で嫁入りしてきたのに、家事全般をそつなくこなしたうえ、家族の着物の布まで手織で上手に織ったという話、来年はどこかへ連れて行ってやろうという話、それは歌曲『冬の夜』を髣髴とさせる情景であった。
 その頃、奈良町ではどの家も裏白や譲り葉をたくさんつけた長い縄のようなお注連を、出入口だけでなく間口いっぱいに引き渡した。それはいかにも禍神が入れない、善神に守られた家という感じがして良いものだったが、だんだん作れる人が少なくなり、今ではほとんどの家がゴロンボと呼ばれる稲穂をくわえた鳥のような形をした注連飾りに変わっている。私の家では祖父の死後、業者に頼んで作ってもらっていたが、それも作る人がいなくなり困っていると、それからは初代の先祖さんの出里から毎年作って届けてくださることになった。先祖の出里とはいうものの、百四十年も昔に分家した家のために毎年注連縄を届けてくださる好意には、感謝のほかない。紅殻塗り(注)の黒い格子造りの間口いっぱいに注連縄が引かれると、いかにもお正月が来るという気がして、やさしかった祖父の笑顔が目に浮かぶ。
  奈良格子の間口いっぱい 注連を張る
 神棚や仏壇には梅、五枚笹、いのころ(ネコ柳)を供える。
  正月は神棚より来し五枚笹
 大晦日は年越しそばを食べながら除夜の鐘を聞く。耳を澄ますと興福寺の鐘と東大寺の鐘が呼応するように聞こえていた。
  東大寺の鐘の響きや去年今年
 生活の変化や自然環境の変化で昔通りの生活はできなくなったとはいうものの、奈良町にはいまだに相互扶助の精神や温かい人情が生きている。私はできるだけ神仏をまつる行事や習慣を守り、奈良町の情緒を残してゆきたいものだと思っている。

(注)紅殻はベニガラとも言うが、インドのベンガルに産したというのでベンガラと呼ばれることが多い。京都の紅殻塗りは赤っぽい色が多いが、奈良では原料の酸化第二鉄に墨を加えて、京都より黒っぽい色に仕上げる。