第07回(1995年11月号掲載)

茶がゆの話

 雑踏の心斎橋通りを少し横道に入って歩いていると、思いがけず「大和茶がゆ」の看板にぶつかった。目をあげると、見覚えのある書体で『菊水楼』と書かれた長提燈がぶら下がっている。菊水の社長さんから、「大阪に支店を出しましたから来てください。」と何度も言われていながら、方向オンチの私は道をたずねながら行くのが億劫でつい来られなかったのが、偶然通りかかったわけだ。この頃、「朝がゆ」を出す店は多くなったけれど、昼でも茶粥を作ってもらえるのかなと思いながら入ってみる。「おかいさん(粥)と言いましても茶粥にご飯もおかずも付いていますし、昼食でも大丈夫。充分おなかが大きくなりまっせ。」と女中さんは、粥では不安そうな娘の顔を見て、笑いながら愛想良く言ってくれた。
 お膳には、炊き立ての粥と、湯気の立つ熱いご飯がのっている。不審そうな顔をしている私達に女中さんは、「こうして頂くんでっせ。」と茶碗にご飯を少しよそって、上から熱い茶粥をかけてくれた。なんのことはない。文字通り大和粥なのに、また、それをいやというほど見て育ったのに、その私までが不審を抱くほど、この頃粥というと軟らかいご飯のような全粥が多くなった。
 私の子供の頃は、住み込みの丁稚さんや女中さんが多かったので、朝は大きな鍋いっぱいの茶粥が炊かれた。かまどで鍋に水を煮立てて、その中に「チャン袋」という糠袋くらいの大きさの木綿の袋に焙じた煎茶を入れたものと、洗米を入れる。お茶がよく出たのを見はからって「チャン袋」を引き上げ、米が軟らかくなった頃に塩を一つまみ入れて薪を消し、後はかまどの余熱でむらす。プーンと香ばしい茶の香りのただよう、サラッとした熱い粥を冷やご飯にかけて食べる。お茶漬けのようなものだが、茶漬けにはない、まったりとした味わいがあった。多人数の家が多かった時代の、上手な冷や飯の利用法だったと思う。
 ひと頃、「熱い粥が胃潰瘍や胃癌の原因になるので大和には胃癌が多い」と新聞などに書かれていたことがあったが、冷やご飯にかけて混ぜるので、胃にこたえるほど熱いものでもなかったから、もし大和に胃癌が多かったとしたら、原因は他にあるのではないかと思う。
 時には、さつまいもを入れた芋粥、栗粥、小豆粥も炊かれたし、茶粥を蒸したさつまいもの上にかけたり、こんがり焼いた餅やかき餅にかけて食べるのも美味しかった。新麦がとれる頃には、はったい粉(大麦を煎って粉にしたもので、麦こがしともいう)をかけて食べると香りが良いと言って好む人もあったが、私は色が汚くなるので好まず、はったい粉には砂糖を入れていつも粉のまま食べた。はったい粉は粉のまま食べると口の中がモガモガして、笑うと吹き出すと言って、熱湯で練って食べる人が多かったけれど、これも色が汚いので、私は粉のままのはったい粉と新茶を交互に一口ずつゆっくり食べるのが好きだった。
 奈良町から茶粥が姿を消したのは、商家の形態が変わって住み込みの人が少なくなったこと、核家族が多くなって一家の人数が減った上に、保温の楽な電気釜が普及したせいだろう。それに、朝はパン食という家が増えてきたからかもしれない。


◆奈良町歳時記 十一月


 十一月は、今は奈良でも七五三で賑わうけれど、昔はあまり七五三をする人がなく、数え年十三才になると、十三参りといって良い智恵を授けて頂くように虚空蔵菩薩様にお参りに行った。
  若殿となりてすませり七五三
  十三参りの大人びて見ゆ蝉時雨
 初秋の頃、「くもじ菜はいりまへんか。くもじ大根。」の売り声で売りに来るのは大根の間引き菜。浅漬にすると香りの良いおくもじができた。この頃になると、浅漬も胡瓜や秋茄子に加えて、茗荷・小蕪・ひの菜・白菜と、次々に美味しいお漬物が彩りよく盛り合わされるようになる。
  新涼や朝々変わる香の物
 浅漬用の糠味噌には山出し昆布や、煮るには熟し過ぎた山椒の実や唐辛子を入れて風味をつける。
 初冬の頃になると、生長した大根が軒端や柿の木に吊られて、太陽の恵みで甘味を増し、適当な風にさらされて余分な水分をなくした大根が沢庵に漬け込まれる。沢庵を漬ける糠には塩のほかに、山出し昆布の細切りや、たかのつめ、砂糖(昔は柿の皮を干したものや茄子の葉を干したものを入れていたが、今は甘くならない程度の砂糖を使っている)を加える。美味しい漬物を作ることは女の大切な仕事であった。
 子供達は楽しんで年中行事である漬物漬け等を手伝いながら仕事を覚え、親子のコミュニケーションを深めていった。
  冬菜漬け幼児の顔に糠のひげ

十三参り/弘仁寺では2、4、6月の各13日に法要が行われ、日曜日ごとに十三参りのご祈祷も受け付けている。
おくもじ/塩漬にした葉菜類のこと。〈編集部・注〉