第06回(1995年10月号掲載)

奈良町の街道

 奈良町のバックボーン上街道は、千年前、花山法皇が霊場巡拝の際に通られたと伝えられ、歌舞伎の梅川と忠兵衛が手に手をとって駈け落ちしたとされる道でもあり、古典落語の七度狐等、数々の物語やロマンスを生んだ道である。なかでも、実話だけに最も心に残っているのは、祖母から聞いた天理教の教祖様の話だ。
 幕末に興った天理教は、不安な時代を反映して破竹の勢いで信者を増していた。明治初期生まれの祖母が物心ついたころは、あまりの急激な信者の増加に不審を抱いた官憲の弾圧を受け、教祖ミキ様は度々警察に連行されて取り調べを受けられたそうだ。祖母はいつもよく、「天理教も立派になったものやな。私の子供のころ、教祖様は人力車に乗せられて、前後に警察の人がついて、よう家の前を護送されはったものや。もうかなりのお年なのに、何時も真っ赤な着物を着てはったので、子供の目にも、また連れて行かれはるなって、よくわかったもんや。大人達は『あの年で真っ赤な着物を着るなんて、やっぱり頭がおかしいのやろ』とうわさをしていたけれど、偉い人やってんなあ。人は死んでから値打ちが出るのが本物やて言うけど、今の天理教の姿を見たら教祖様の偉さがわかるわ」と話していた。
 そのころ、私は真っ赤な着物というのにちょっと疑問を抱いていたが、後年、色彩に関する本に、「赤は強い意志を表す色である。昔、天理教の教祖が官憲に連行される時は必ず赤い着物を着て自分の存念を滔々(とうとう)と述べられたと聞く」とあるのを読んで、祖母の記憶に間違いがなかったことを確認するとともに、教祖様の非凡さに舌を巻いた。
 また、維新前の不安な時代には、「ええじゃないか、ええじゃないか」のお陰参りも乱舞しながら通ったであろうと考えると、車を運転する人から「狭い」と嫌われるこの道にも、興の尽きぬものがある。
 上街道は奈良の経済の動脈でもあったので、当時の奈良町は物資の集散地として栄えていた。なかでも元興寺は、問屋として呉服・小間物・食料品問屋が軒を連ね、明治以来いち早く洋服屋や自転車屋等の新しい商売、銀行や郵便局の金融機関も開かれ、料理屋や仕出しの店もあって繁盛していた。丁字香というびんつけ油を製造販売していた丁字屋さんなどは、今風に言えば化粧品メーカーとして全国に気を吐いていたと言われる。
 牛車や犬に曳かせた荷車が忙しく行き交った時代は、誰もこの道が狭いとは思っていなかった。犬が車を曳くと言うと若い人は笑うけれど、昔は荷車を曳く飼い主を助けて、犬が腹帯に綱をつけて引っ張っていた。人間も犬も共存共栄の、古き良き時代の話である。
 牛や犬がトラックのエンジン代わりをしていたわけだから、当然その糞も道路に落ちるはずだが、私の記憶では湯気の出そうな糞は落ちていても、長い間ほうっておいて干からびたようなものは無かったように思う。
 当時、漫画家として第一人者であった田河水泡先生(長谷川町子さんのお師匠さん)が、漫画で自分の日常生活を描かれた一コマに、「毎朝、近所を散歩する時、馬糞が落ちていたら拾って帰って庭の花の肥料にする」という註を入れて、小さなほうきと袋を持って散歩しておられる画があって、東京でも道に馬糞が落ちているのだなと思ったことがあったが、そんな殊勝な心掛けの人ばかりではないから、町を愛していた当時の人達はこまめに道路のお掃除をしておられたのだろうと思う。
 ちなみに、荷物を運ぶのも関東は馬車が多く、関西は牛車が多かったようだ。
 昭和三十年頃までは、国鉄桜井線の京終駅は貨物の集配駅として繁盛していた。駅前には運送店や商人宿が軒を並べ、貨車で京終駅に着いた荷物は牛車や荷車に積みかえられて注文主の所へ配達された。駅の近くには索道の会社もあって、木材が索道で運ばれてくると貨車に積まれ、山間の村へ行く荷物は索道に積まれた。貨物だけではなく、奈良町へ来る乗客も結構多く、駅員さんもたくさんおられたが、数年前久しぶりにJRで桜井へ行く用事が出来て京終駅へ行ったら、無人駅になっていたのでびっくりした。それほど、荷物はトラックで運ばれることが多くなったし、近郊からは車で往来したり、JRで来ても奈良まで行ってしまうほうが便利な人が増えたようだ。

上街道/元興寺の前から桜井、伊勢へと続く道。古くは平安時代から長谷寺詣での道であり、近世になって近畿・西国からの伊勢参宮の道となる。増尾さんのお宅の前の道。 〈編集部・注〉

◆奈良町歳時記 十月

 九月も終わり頃になると、子供達はお祭りが来るのを指折り数えて待ちこがれる。御霊神社のお祭りは十月十三日で、十二日は宵宮。綿菓子やみたらし、たこ焼き、りんごあめ、飴細工屋、金魚すくい、鯉釣り、お面屋、風船屋、あてもの屋、ハッカパイプの店などの出店がいっぱい並んで子供達を夢の世界へ誘う。女の子達は紅絹の裏のついた長いたもとの着物に金らんの帯を結んでもらって、お宮様へお参り(大人達もこの日から袷に着替える)。神社の境内では太い薪が焚かれていて、男の子達がそのまわりをはねまわっている。お参りを済ますと、明日のお渡り(渡御)のお神輿や花傘、獅子頭などを見に行く。子供達が怖がるくせに一番人気のあるのが天狗の面であった。お祭りの日は学校から皆で神社へ参るだけであとは休み。また、着物を着せてもらってお渡りを待つ。祭太鼓がドーンドーンと聞こえてくると胸がワクワクした。お神輿が家の前を通られる時は皆外へ出て、お賽銭を上げて拝む。子供達は可愛らしいお稚児さんを見るのが楽しみで、天狗さんやお獅子が子供達を驚かしながら通るのも、やはり怖いもの見たさで楽しみであった。お祭りが終わるとなんだかがっかりして名残のハッカパイプなどをくわえて二、三日ぼんやりしていたものだ。
  紙箱のひよこ売らるる秋祭り