第05回(1995年09月号掲載)

信仰とジンクス 

 信仰深い奈良町の人達の間には禁忌のようなものがあって、そうした事態が発生すると町中が結束してお呪ないのようなことが行われた。例えば、松の内に人が死ぬと、その年は町内から七人の死者が出ると言って畏れられた。当時は医療が今ほど発達していなかったうえ、子だくさんの家が多く、従って死ぬ人も多い時代であったから、年の始めに死者が出れば、その年は葬式が多いと感じられたのも無理はない。
 そこで元旦から十五日までの間に死者が出た町では、町内の人達が集まって「槌引き」の行事が行われた。長い丈夫な縄の一方に七つの木槌をくくりつけて、日がとっぷり暮れてから皆でその縄を町中引っ張って歩く。もし木槌が途中で落ちたりすると、前で落ちた家から死者が出るというので、切れたり解けて落ちたりしないように槌は縄にしっかり結びつけられる。槌引きに出ないと自分の家の者が死んでは大変というので、一軒に一人ずつは必ず参加する。槌引きは町内をくまなく七回まわるが、その間口をきいてはいけない。寒い暗い町を黒っぽい重ね着で黙々と槌を引く集団は、知らない人が見たら鬼気よだつ秘密結社の呪術のように見えたことだろう。
 子供達の間では、お葬式をしている家の前を通る時は、親指を内にして握りこぶしを作って足早に通るのが不文律のようになっていた。たまたま忘れてそのまま通ると、友達が「早よう唾を吐き」と教えてくれた。唾を吐くとこのジンクスが消えるのだそうだ。死の暗示に対する畏れも強く、星が流れたり鴉が妙にさわぐ時は人が死ぬと言われていた。姉が死んだ時、おくやみに来られた方が、「今日は朝から鴉が変な鳴き方をすると思っておりましたら、お悪かったのですね。」とおっしゃっているのを聞いて、それからしばらく子供心に鴉が気味悪く思えたのを覚えている。夜に爪を切ると親の死に目に会えないとか、夜詰をしなければならない病人ができると言ってきらった。どうしても夜爪を切らなければならない時は、「これは鬼の爪、これは鬼の爪」と言いながら切る。子供の頃「どうして鬼の爪と言うの?」と聞くと、「鬼は鋏を持っていないから」と教えてくれた人があったが、「魔の爪を切っているのだから見逃してください」といった意味ではないかと思う。
 乳歯が抜けると、それが下の歯だと屋根へほうり上げ、上の歯だと踏まれないような所を選んで土に捨てると丈夫な大人の歯が生えてくると言われていた。目にものもらいができると、篩(目の荒いふるい)を持って井戸を覗いたらよい(篩の目から屑豆のようにものもらいを落とすという意味だろうか?)とか、黄楊のくしの背で畳のへりを何度もこすって、くしの背が熱くなったら、それをものもらいにあてるとよいとか言われた。しゃっくりが出たらびっくりさせるか、茶碗に水を入れて上に箸を十文字にのせ、水を一口ずつ四方から飲むとか、咽に骨が立ったら菜の漬物かご飯を丸飲みにするとか、口頭瘡(あくち)が切れたら櫟の割木を焚き、木の切り口から出てくる泡を塗ったらよいとか、いろいろなおまじないが行われた。東大寺の修二会のおたいまつの燃えがらを枕元におくと、子供は夜泣きをしないし病人は楽になると言って、落ちてくる火の粉をものともせず燃えがらを拾ったものだ。昔は捨吉とか捨松とか「捨」のつく名前がよくあった。大切な子供を捨てたいはずはない。これは、親が厄年に生まれた子に厄のわざわいが及ばぬよう、また、嬰児や幼児を死なせた体験をもつ親は、元気に育つようにとの祈りをこめて「捨」の字を使ったそうだ。私の家でも、初代(幕末の頃)は上の子二人が夭逝したので今度こそ丈夫に育つようにと、三男に捨吉という名前をつけたが、さらに女の子のように呼んだ方が育ちやすいと人から聞いて、「お捨さん」と呼んで大切に育てたそうだが、明治六年夭逝した。当時は、男の子は小さい時は腸が弱くて女の子より育ちにくいと信じられていたようだ。
 楢太郎とか楢菊とか「楢」の字がつく名前も時々あったが、これは櫟本にある楢神社に願かけをして授かった子供に、お礼の意味をこめてつけられたものと聞いている。脱皮した蛇の皮を財布に入れておくとお金がたまるとか、箪笥の引き出しに玉虫を入れておくと着物が増えるとかのジンクスもあったようだ。
 慎ましく生きた時代の人達の無事繁栄を願う心のあらわれだと思う。

櫟本(いちのもと)/地名。天理市櫟本。〈編集部・注〉


◆奈良町歳時記 九月

 お月見の日は萩やすすきを活けて、お団子や枝豆をお月様に供えるのは全国同じだと思うが、奈良では、猿沢池の水に手足をつけると霜焼けにかからないと言って、手に手に手桶などを持って猿沢池へ行った。池の周りは押すな押すなの人出なので、直接足や手をつけるのは大変だし危ないから、各々持って行った容器に池の水を汲んで家族が代わりばんこに手足をつける。平素、働き詰めに働いてあまり家から出ることもなかった昔の人達が、名勝猿沢池に姿を写す名月を愛でる知恵だったのだろうか。
  兎の面すすきにつけて月を待つ
  待宵や灯明ゆらぐ思惟菩薩
 毎年中秋の名月の夜には采女神社で采女祭が行われるが、昭和二十八年からは秋の花で飾った二メートルもある花扇を竜頭船に乗せて、雅楽の調べと共に猿沢池を三周するようになったので花扇祭とも呼ばれ、采女の出身地である福島県郡山市(奈良市とは姉妹都市でもある)から「ミス采女」を迎えて王朝絵巻を繰りひろげる。
  船渡御に雲を出でたる望の月
 お彼岸にはおはぎを作って仏様にお供えする。この頃は元興寺の彼岸会にお参りすると、いつもおはぎを一箱ずつくださるので、家で作らなくなったけれど、家で作った大きなおはぎの味もなつかしい。昔、国語の時間に日本人の季節感の話から、先生が「同じあんこ餅でも春は牡丹餅(ボタもち)、秋は萩の餅(おはぎ)というように、季節によって呼び名が違います。」とおっしゃった。そこで生徒達が一斉に、「おはぎとぼた餅は違います。おはぎは餅米とうる米を混ぜて炊いたおにぎりにあんこを付けたもの。ぼた餅はお餅をあんこにくるんだものです。」と言った。先生は、「へーえ。私は田舎で育ったからおはぎもぼた餅も一緒のものと思っていたけれど、さすが奈良ですね。」とおっしゃって大笑いした。私達はその先生にそれまで以上の親近感を抱いたものである。
  秋彼岸風が鰐口叩きをり