第03回(1995年07月号掲載)

元興寺界隈の夜店

 元興寺町と井上町には合同で勉強会という商業グループがあった。明治二十五年に大阪湊町〜奈良を結ぶ汽車が、大正三年には大阪〜奈良間に大阪電気軌道(近鉄の前身)が開通。奈良にまだ鉄道が開通されていない時には商業の一番の中心地であった元興寺界隈の賑わいが、鉄道の開通によってだんだん北の方へ移っていくのを少しでも食い止めようと、勉強会では懸命の努力がなされていたようだ。東向きや餅飯殿の商店街に日よけの天幕(アーケードの前身のようなもの)が出来ると、元興寺町にも通りを覆う天幕が出来た。道路の舗装もいち早く実現した。しかし元興寺近辺は卸屋が多かったので、夜は早く店を閉めるから町が暗くなって人通りがなくなってしまう。そこで、夜も人々を導引して町を活性化させようと考えられたのが夜店だった。協議の結果、夜でも歩くのに快適な五月から九月までの間、一と六のつく日には一六(いちろく)の夜店なるものが開かれることになった。夜店の晩は、アセチレンガスとみたらしやお好み焼きを焼く匂いがまじり合って子供心をくすぐった。下駄や草履を並べた履物屋さんは、通り客の持ち込んだ、すりへったはま下駄(下駄の歯がはめ込み式になっている下駄。主に雨の時や板場さんなど水をよく使う人がはく下駄)の歯の入れ替えや、切れた鼻緒のすげ替えなど、古い下駄の修理をしながら店番をしていた。一般的に下駄よりも高価な靴でさえ履き捨て時代となっている昨今とは違って、物とは神仏からの授かり物であるとの観念から、物を粗末にすることはもったいない、冥加に尽きると人々が信じていた古き良き時代のことである。金魚すくいや飴屋さん、植木屋さんや茣蓙(ござ)の上に並べた古道具屋さん等、落語に出てくる夜店風景そっくりであった。
 中でも女の子に人気のあったのは「ぼんちこさん」と呼ぶ人形の首だけを木の棒につけた物を売る店であった。ぼんちこさんの髪は、桃割れ、丸まげ、高島田、つぶし島田等いろいろで、ちょんまげの男の頭まであった。このぼんちこさんに千代紙や布で着物を着せてままごと遊びの主人公にする。従ってたくさんの人形があるほど遊びもバラエティーに富むので、子供達は空き箱に着物を着せた姉様人形(ぼんちこさんは着物を着せると姉様人形と呼ばれた)を並べて大切にした。子供達はこの着物を度々着替えさせることによって色彩の取り合わせや着物は右前に着せることなどを自然に学んだのである。祖母の話によると、祖母の子供のころは、チリ紙を細い棒に巻きつけて左右から押して、縮ませた紙で髪を結ってぼんちこさんまで自分で作ったそうだ。
 手作りといえば、今は庚申さんの申として庚申様に納めたり、軒端に吊したりするだけに使われている申も、昔は祖母や母が子供のために縫ってやる、今でいえば縫いぐるみのようなものであった。子供達は転がしても投げてもこわれない安全な玩具として、この申の縫いぐるみでよく遊んだ。若い娘さん達は小さい奇麗な申を作って、鋏や財布に付けていた。その頃、私は単なる玩具や飾りだと思っていたが、子供が健やかに育つよう、災難にあわないよう庚申さんに願いをこめてのことだったのかもしれない。
 五日に一度ある夜店にたくさんの露店が店を出して、商いが成り立つほどの人が集まったのは、今では嘘のように思える本当の話である。しかし第二次世界大戦がはじまって物が不足しはじめると、売る物もないまま夜店は自然消滅し、天幕を支えていた鉄柱は供出されてしまった。戦後になって昭和二十六、七年頃に夜店は復活したが、それも二、三年で終わり、もう天幕やアーケードがたつこともなく、奈良町は仕舞屋(注)の多い町になってしまった。

※仕舞屋(しもたや)/商店でない、普通の家のこと。正確には「しもう たや」と読むが、奈良町では「しもたや」と言った。〈 編集部・注 〉


◆奈良町歳時記 夏(壱)

 梅がやや熟れてくると梅干しを漬ける。塩に漬けた梅に水が上がってきた頃、赤紫蘇をもんで入れる。土用になると平たいざるに梅を並べて土用干しをする。
  梅を干す手に紫蘇の香のまつはれる
  長箸で干梅返し日に曝す
  干梅の香が廊下まで満ち充てり
 苺や林檎がたくさんあるとジャムに煮ておくと、これも保存食のひとつ。
  苺の香重くよどみてジャム煮詰む
 奈良町の家は鰻の寝床のように奥に長いので、裏の空地でちょっとした野菜を作っている家が多かった。初夏になって胡瓜が出来ると、子供達は初採りの胡瓜に名前を書いて川に流しに行く。水遊びの時、河童にさらわれないおまじないだ。川らしい川のない奈良町で、今は暗渠となってしまった小川に胡瓜や七夕笹を流していたが、どこかでつっかえたりしてご迷惑をかけていたのではないだろうかと、何十年も経った今ごろになって気にしている。
 戦前の奈良町は初夏ともなると、もの売りの声が爽やかに響いて町が活気づいた。
 「きんぎょーい、きんぎょ」、「とうふーい、とうふ」、「ひやっこいわらび餅」。人々はその呼び声を聞くと鉢や容器を持って表へ走り出した。
 豆腐屋さんはお清汁(すまし)に入れると言えば奴に、味噌汁と言えばサイの目に大きな包丁で器用に切ってくれた。磨き上げた桧の桶を天秤棒でかついだ、いなせな刺身屋さんは、呼ばれると台所まで荷を持ち込んで、蛸やさらし鯨、鱧等に笹の葉や青紫蘇をあしらって涼しげに盛りつけてくれる。「カチワリも作っておきましょうか」と、冷蔵庫をあけて氷を割るサービスもしていってくれたものだ。  
 この間、燃えないゴミを袋に詰めていて、ふと昔のように容器を持って買い物に行くだけで随分ゴミが減るだろうなと思った。今のようにパックされている方が衛生的で便利な面もあるが、コミュニケーションに富んだ買い物風景も今はなつかしいものの一つだ。