第02回(1995年06月号掲載)

子供の行動範囲

 当時の奈良町は、商家と職人さんの多い町であった。子供達の行動範囲も狭かったので、私の小さい頃は、大人は何か商売をしているものだと思っていた。私が女高師の附属幼稚園に入園して、近鉄奈良駅より北まで通うようになった時は、随分遠い所まで毎日行かなくてはならないのだなと思った。
 当時の大人達は、「この頃法蓮もようなったなぁ、家がどんどん建っていって。」と、まるで今学研都市が発展してゆくうわさをする様に話していて、まだ法蓮村といった時代の感覚が残っていたくらいの時だから、駅の北といえばよその町へ行くような気がしたのも無理はなかった。
 私の隣の席になったのは志賀直哉さんの坊ちゃんの直吉ちゃんだった。その頃花園町(隣町)に志賀バーバーという散髪屋さんがあったので、「あなたの家、散髪屋さん?」と聞いた。直吉ちゃんは勿論「いいえ」と答えた。「お家は何の商売をしているの?」「何もしていない。」「じゃあお父さんは何をしているの?」「毎日何か書いてる。」「フーン。」妙な家もあるものだなと思って、帰ってその話をすると皆に笑われた。どうやら志賀直哉先生の名前を知らなかったのは私だけだったらしい。それからも毎日話をしていると、直吉ちゃんは富雄川へ釣りに行ったとか、嵯峨野へ散策に行ったとか、私の知らないことをよく知っていた。
 私達がせいぜい連れて行ってもらう所といえば、大阪へ芝居を見に行ってデパートで買い物をするとか、あやめ池の新温泉ぐらいだった。あやめ池は当時出来て間なしで、今のような遊園地はなく、駅の南側にドームのような屋根をもった建物のなかに、歌劇が上演される劇場、大浴場、和洋食堂、ゲーム機や遊具を置いた子供の遊び場等を備えたヘルスセンターのようになっていた。
 駅の北側には出口がなく、春はもちつつじの咲く丘だったし、秋には駅前に天幕がはられて松茸山の案内をしていた。私も松茸狩りに連れて行ってもらったことがあるが、大人になってからは、あれはどの辺だったのだろうと考えてみると、どうやら今自動車学校になっている周辺やあやめ池遊園地、学園前の住宅街になっている辺りだったようだ。その頃は「あやめ池の松茸山」と電車の中にもポスターが貼ってあったりしてかなり有名だったのだが、今から思うと夢のような話だ。
 祖父母に連れられてお寺へお参りするにしても、それはあくまでお参りだったから、仏像を鑑賞したり周囲を散策したりするとはほど遠い感覚であった。
 今、奈良新聞に時々掲載されている志賀日記を見ると、ああこの時直吉ちゃんもついて行っていたのだなとなつかしく思うと同時に、作家の行動範囲や交際範囲の広さに感心し、そしてまた、往時の奈良町の子供達の精神的な行動範囲の狭さを痛感して、自分の子供や孫には出来るだけ種々の経験をさせたいものだと思っている。


 奈良町は商家の多い町であった。町全体の繁栄を願い、家内安全を祈るいろいろな習慣や行事があって、それを守る人が常識ある人とされ、互いに教えあい、助けあって仲良く暮らしていた。古い家並みが建て替えられたり駐車場になったりして環境が変わるのと同じように、古い習慣もだんだん忘れ去られてゆく。せめて覚えていることだけでもと奈良町の一年を書いてみました。

◆奈良町歳時記(6月)

 端午の菖蒲湯も一月遅れの六月五日にたてた。菖蒲の葉に蓬を添えて軒にふく軒菖蒲も、この頃はする家が少なくなって、しきたり通り菖蒲をふいているとかえって珍しがられるようになってしまった。
 六月十七日は率川神社の三枝祭。一般にはゆり祭りと呼ばれ、酒樽に三輪山で摘んだ笹百合を飾りつけてお供えする悪疫除けの祭礼。百合の香りが境内に満ちて美しく華やかなお祭なので人気がある。
◆ゆり祭
    御神燈に百合描かる 稚児の手をひく母達は 浴衣がけ
 昔は保存食を作ることも女の大切な仕事であった。私は今でもできるだけ昔の味を子供に伝えようと、作るようにしているので、最近の私の句に
  忙しき季節のはじまり  山椒煮る
というのがある。山椒の実を醤油と酒とみりんで煮詰めて、山椒の佃煮を一年分作る。
  山椒摘むマニキュアの爪 黒ずませ
 山蕗が出はじめると、きゃら蕗を作る時もこの山椒をたっぷり加える。
  きゃら蕗を煮る 芳香をただよわせ
 沢庵の古漬も細かく刻んで塩出ししたものに山椒を加えて炊いたり、ちりめんじゃこと山椒でちりめん山椒を作ったりもする。
 青梅が出はじめると梅酒を漬ける。
  月が瀬の梅青々と 届きけり
 梅酒は長く置く程熟成して美味しいので、できるだけたくさん漬ける。