第01回(1995年05月号掲載)

済美小学校のこと 

  今日(平成五年一月二十四日)奈良町を校区とする市立済美小学校の創立百二十周年の記念式典が挙行され、お招きを受けて私も参列させて頂いた。卒業生には前知事の上田繁潔様、前市長の西田栄三様もおられ、会が始まる前からなつかしい思い出話に花が咲いた。
 式典にさきだって記念碑の除幕が行われた。生駒石の記念碑には中川校長先生の字で「未来にはばたく済美の子」と刻まれていた。私達の時代だったら、おそらく「未来へはばたけ済美の子」となっていただろう。くとけと一字の違いであるが、子供の立場からすれば「はばたけ」というのは受動的だが、「はばたく」と言うと子供達自身がはばたいて目標にむかって真っ直ぐ飛んで行こうとしているエネルギーを感じる。短い言葉だがよく考えられた言葉だなと感心した。
 式典では各来賓の祝辞や実行委員長の挨拶、校長謝辞で百二十年の変遷や抱負が語られた。五年生、六年生によるお祝の演奏もあり、歴史を物語る資料展と未来を夢見る児童作品展等を感慨深く見た私は、家へ帰って記念誌を見ながら、フト祖母や父の入学した頃の学校の様子に興味を持って、生年月日と年表を照らし合わせてみた。
 済美小学校は明治六年(一八七三年)、今も鳴川町にある徳融寺を教場として、魁化舎(かいかしや)という名前で誕生した。
 学区は四十三ケ町村という数に疑問を抱いて町名を見ると、範囲は今の校区とあまり変わらないのだが、肘塚村、城戸村、木辻村等というのがあって、こんな町のまん中が村だったのかとびっくりする。
 飛鳥小学校もはじめは元興寺極楽坊に出来たそうだから、当時は寺子屋が学校に変わったのだろう。
 私の祖母は明治八年五月一日生まれだから、学校へ入学したのは明治十四年位のことだろう。明治十四年は、それまで奈良町は堺県に属していたのが、堺県が廃止されて大阪府の管轄となった年である。校名は「中辻小学校」といって中辻町にあった紀州屋敷跡が校舎となっていたそうだ。祖母はよく、「私が子供の時、コレラが流行って昔はコロリと死ぬというのでコロリと言った位なので、親達が心配して『麝香(じゃこう)を身につけているとうつらない』と人から聞くと、麝香を買って来てお守り袋に入れて持たせてくれた。」と言っていたのを、私はその話を旅No3に書く時、コレラなんてそう発生するものでないからチフスの間違いだろうと思ってチフスと書いたが、年表を見ると、明治十二年の八月に「コレラ流行につき、臨時休業二ケ月余」とあるから祖母の言っていたことが正しかったのだ。祖母は又、「当時は、小学校は四年生までだがそれでも、『学校へ四年も行かなくても寺小屋へ二年〜三年行けば読み書き出来るようになるから』といって、子供を寺小屋へやる親が多く、私は高等科まで行ったけれど、女の子で高等科へ行く子は本当に少なかった。」と言っていたが、当時の就学生徒数を見ると、男一五三人、女一一六人、計二六九人と書いてあるから、四十三ケ町村で二六九人という人数は、人口が少ない時代とは言うものの、祖母の言っていたことがうなずける。明治十九年になって、小学校四年は義務教育となったようだ。高等小学校は四年だったと言うが、祖母が言っていたとおり進学する人は少なかったのだろう。
 明治二十六年生まれの父が入学したのは、市制が施行されて奈良町が奈良市になった頃だった。校舎が陰陽町に新築され、校名も「済美尋常小学校」と改称された時で、校歌(旧)や校旗も制定されて、学校としての体裁を整えてきた時代だ。
 姉が生まれた大正五年四月に、学校は現在地に移転して「第四尋常小学校」となり、姉が入学した大正十一年には、高等科を併置して「第四尋常高等小学校」と改称されていた。
 私が入学したのは昭和七年。丁度六十一年前である。私は常々、百二十年というのは二度目の還暦であって、考えようによっては百周年よりも意義があるとの思いから、砂糖伝増尾商店の百二十年の時も沢山のお客様をお招きして記念祭をしたが、私が入学した頃に、この学校は一度目の還暦を迎えたのだと思うと感慨深い。上田前知事さんは私より少し上なので、「この学校の歴史の約半分の六十年近く前に卒業した。」と言っておられたが、どちらにしても百二十年という長い年月の約半分を元気で生きさせて頂き、母校の発展ぶりを目のあたりに見せて貰えるのは有難いことだと思う。姉も私も四年生から奈良女高師の付小に転校したので、この学校の卒業生名簿には載っていないが、初めて学校生活というものを体験した思い出いっぱいのなつかしい母校である。
 長女の治代が入学した時は、名前も今と同じ「奈良市立済美小学校」になっていた。治代が六年生の時(昭和三十一年)、卒業も間近い一月十八日の午后、消防車がけたたましく走る音が聞こえた。びっくりして外へ出てみると、西の方に黒い煙がモクモクと立ち上がり、「済美小学校が火事だ。」と人々が騒いでいる。とにかく子供を迎えに行かなければと思って木辻の辺りまで行くと、泣きながら帰って来る子供達に出会った。被害が少なくすめばとの願いも空しく、校舎のほとんどが焼失してしまった。生徒達は市内の各小学校に分れて授業を受けることになり、六年生だった治代は楽しかった小学生生活の最後の二ヶ月程を佐保小学校へ通ったのも今となれば忘れ難い思い出だ。
 孫の朗が入学した昭和五十六年頃は、児童数が増えてプレハブ校舎が次々増設され、二年生の時には過密解消のために「奈良市立済美南小学校」が新設されて、お友達の一部が転校して行かれた。朗が入学して以来今日まで、浩、そして崇と、三人の孫達が次々とお世話になっている。以上済美小学校の歴史と我が家の家族とのふれ合いについて述べたが、奈良町に住む人達の殆んどは、この学校とのかかわりを持って来られたことと思う。
 奈良町の人々と共に歩み、貢献して来られた済美小学校が、益々発展され教育の実を上げられることを心よりお祈りする。